2023年
第28回入賞作品
佳作
忘れんとってや 藍畑 紀子(68歳 パート)
「お巡りさん、大変! 人が死んでる。早く一緒に来て!」
天王寺公園近くにある交番に私は駆け込んだ。中年の大きな顔のでっぷりとしたお巡りさんは私の大声にすぐさま椅子から立ち上がった。
「ほんまに、どこや」
もろに関西弁で緊迫感がない。それでも、“外出中”という札を机の上に置くとすぐさま外に出ていた。
私は地下の歩行通路で毛布にくるまっている男の人を指さした。お巡りさんはその人を見ると苦笑いをし、そして
「おっちゃん、このお姉ちゃんが死んでるんちゃうかって心配して交番まで来てくれたで。ええかげんしっかりしいやー」
毛布にくるまっている人は死んでいないの。私は戸惑った。毛布の中から薄汚れた顔が見えその顔が動いた。それからお巡りさんの呼びかけに目が開いた。
「わぁー。生きてる!」
私は思わず腰を抜かした。さっき見た時はびくりともせず、声をかけても反応すらまったくなかったのに。目の次に口も動いた。
「心配してくれておおきになぁー」
にっこり笑うとまた毛布に顔をうずめた。お巡りさんは、唖然として立ち尽くしている私の肩を叩きながら
「お姉ちゃん、ちょっと交番に寄ってな」
私は言われるままにお巡りさんのあとに付いて交番に戻った。
お巡りさんは折りたたみ椅子を広げると
「冷えるなぁー。あったかいお茶入れてくるさかいここに座っててな」
たしかに三月下旬というのに花冷えのする日だった。私は椅子に腰かけて何が何だかわからなくなっていた。するとお盆にお茶とお菓子を載せてお巡りさんが戻ってきた。
「お姉ちゃん、年いくつ?」
「十八歳」
「大学生か?」
「いえ…… 浪人して予備校生に……
あのうー、あの人あのままあそこに放っておいて大丈夫なんですかー」
「ええなぁー 嬉しいなぁー ほんまに。その気持ち忘れんとってや。大事にしてなぁ」
どのくらい話していただろうか…… お巡りさんはなぜか感激してずっと話している。一刻も早く帰りたい私の思いに反して……
十八歳だった私も五十年が経ち七十歳に手が届く高齢者の仲間入りする歳となった。
今ではホームレスを知らない人はいないご時世となったが、あの当時、私の住んでいた田舎町では見たこともなく私には衝撃であった。そのホームレスを死んだ人と勘違いして交番に駆け込んできた私に、なぜあれほどまでにお巡りさんが感激してくれたのかあの時はまったくわからなかった。
でも近頃、あのお巡りさんの言葉が心によみがえる日が多くなった。
「あのおっちゃんは、お酒に呑まれて、世の中の波に呑まれて帰る家をなくしてしもたんや。でもな、どんな人にでも関心を持って心配して優しい思いやりの目を向けていく気持ちは大事なんや。お姉ちゃんはその気持ちを持ってる。ほんま嬉しいわ。誰かに自分のことを心配してもらえた、そんな思いは一番嬉しいもんや。そやからあのおっちゃん、おおきにって口きいたやろ。初めておっちゃんの声聞いたわ。おとなになるとな、だんだん他人(ひと)さんに無関心になっていくんや。寂しいことやけどな。お姉ちゃん、おとなの世界へいっても世の中の波に呑まれて無関心な人にならんといてや。お巡りさんとの約束やで。忘れんとってや」
いつのまにか私も世の中の波に呑みこまれているように感じる。いろんな所で見て見ぬふりをしてできるだけ関わりをもたないようにと。約束忘れんようにしていかなけゃ!!