2023年
第28回入賞作品
佳作
厳格な祖父 山本 辿(17歳 高校生)
小学生の僕にとって、腕時計は大人の象徴だった。なぜなら、街で見かける、働く大人達はみんな腕時計をしていたからだ。かっこいいスーツを着たサラリーマンは、メタルバンドの腕時計を、近所の井戸端会議を楽しんでいるおばさん達は、革ベルトの、ブレスレットみたいな腕時計をしていた。
僕は腕時計が欲しくてたまらなかった。早く大人になりたかったからだ。腕時計を着けただけでは何も変わるはずが無いのに、あの頃の僕は腕時計さえ着けていれば、自分も大人の仲間入りだと信じて疑わなかった。そこまで大人に憧れる理由は、僕の生まれた環境にあった。
祖父母の家、叔父の家、叔母の家。親戚の家はどこも近くに建っており、会おうと思えばいつでも会える距離だった。そんな環境の中、従兄弟が成人した年に、一人っ子として生まれた僕は、親戚みんなからの愛を一身に受け、かなり甘やかされて育った。今振り返れば、かなり恵まれた環境に生まれたと思うし、親にも親戚にも感謝している。しかし当時の僕にとって、それは地獄であった。かっこつけたい時期に、かわいいかわいいともてはやされるのだ。幼いながらにもプライドというものがあり、子供扱いされるのは嫌でたまらなかった。そんな僕の気持ちを汲み取ってくれたのだろうか、或いは好かれていなかっただけだろうか。祖父だけは僕に対して異様に厳しく接してくれた。祖父に叱責される度に、僕は悪夢のような恐怖を感じ、身体を硬直させていたけれど、心の中ではそれが嬉しくもあった。そんな祖父なので、僕が腕時計を欲しがっていることを耳にした時には、「生意気だ。」「自分で買える年になってから言え。」と叱られてしまった。至極全うな正論に、僕は反論することも出来ず、黙り込んでしまった。普段ならここで説教タイムは終了で、祖父はどこかに行ってしまうのだが、この時だけは違った。「お前が立派な大人になったら、俺の腕時計をやる。」確かにそう言ったのだ。これまで優しい言葉なんてかけてはくれなかった祖父が、何一つ買い与えてくれなかった祖父が、そう言ったのだ。僕は嬉しくてたまらなかった。そして互いの小指を結び、未来の約束をした。
それから年月が経ち、二千二十三年。僕は十七歳、祖父は八十六歳になった。しかし祖父は認知症を煩ってしまい、症状は家族のことがわからないほど進んでいた。ほとんど寝たきりだった。そんな中、突然祖父に呼び出され、半ば強引に腕時計を手渡された。僕は訳がわからず、理由を尋ねたが、「おめでとう。」という言葉が返ってくるだけだった。
それから数日後、祖父は亡くなった。葬式には、祖父から貰った腕時計を着けていった。祖母から、生前、祖父は僕との約束を楽しみにしていたこと。祖父は僕が成人したと思い込み腕時計を贈ってくれたことを伝えられた。「その時計、おじいちゃんの宝物だったの。大切にしてあげてね。」そう言われた。僕はその場に泣き崩れた。祖父の症状は僕の名前がわからないほど進んでいたのに、幼い僕と結んだ約束だけは忘れずにいてくれた。あの時は感じることが出来なかった、厳格な祖父からの愛情を今になって強く感じた。
今の僕は精神的にも立派な人間になれていないし、年齢的にも大人になれていない。子供の僕にこの腕時計は見合っていない。しかし来年、僕は十八歳の成人になる。時間はないけれど、それまでには、少しはこの腕時計が似合う男になりたいと思う。天国の祖父に少しは立派になったなと認めて貰えるように。それが僕と祖父の約束だから。
しばらく僕の顔は涙でくしゃくしゃだったけれど、ずっしりと重たく感じるブルーの文字盤は、キラキラと輝いていた。