2023年
第28回入賞作品
佳作
結び目マキシマリスト 窪谷 まひろ(17歳 高校生)
四月になると、思い出す背中がある。灰色の背広に、古いスニーカー。白髪混じりの頭に、実は禿げがあるのだと教えてくれた。
小学五年生の頃、先生に数学を教わった。先生は不思議な人で、不思議な授業をする人だった。先生の授業には、紙も、えんぴつも、教科書も要らない。
『あたま、ゆうき、ともだち』
持ち物はこの三つ。考える『あたま』と、声を上げる『ゆうき』、そして助け合う『ともだち』。不思議がる私達に「たまには算数以外もいいでしょう」と笑っていた。
先生は色んな問題を出した。「電車でお年寄りに席を譲ったほうがいいか」とか、「給食を残したらダメか」とか、そんな問題ばかりを。みんな初めは自信たっぷりに話すのに、友達と言いあっているうちに分からなくなってくる。授業で結論は出ない。そして一日の授業で考えたことを紙に書き、教室の壁に貼るのだ。先生の授業が好きだった。
先生が先生でなくなったのは、新年度の四月だった。先生を辞めますと、そう言った。先生は最後の授業の日、黒板にこう書いた。
『どうして、約束をするのか』
「忘れないように」と誰かが言った。「しなくちゃいけないから」とも言ったし、「したほうが良いから」とも言った。先生は全員の話を注意深く聞いて、そうですね、と頷いた。それから二本の糸を出して見せた。
「人と人が、こんな感じで、別々の糸だとしましょう。向かい合っている二つの糸がどんなに絡まっても、引っ張れば、ほどけてしまいますね」
先生が糸を引っ張ると、交差した糸はするっとほどけてしまった。
「だから、こうして一度結んであげます。これが約束です」
糸の間に小さな結び目ができた。
「一度結んでしまったら、しばらくたてば、忘れられてしまいますね。どこでどの糸と結んだのか、分からなくなります。でも、糸の先を引っ張れば、そこが引っかかって、すぐに思い出すことができます」
もう一つ、別の糸を取り出した先生は、片方の糸と、それを結んだ。
「では、これがたくさん増えたらどうですか。色んなところに結び目が出来たら、引っ張ってみても、どれが引っかかっているのか分かりません。思い出すこともできませんね」
結び目のできた糸を手のひらに乗せた。
「約束は、思い出せる限りである方が、素敵ではありませんか」
質問に、誰も答えなかった。みんなそれぞれ、思い出せる限りの約束を反芻していた。
四月の頭、離任式を最後に、先生は先生を辞めた。贈られた花束を持った先生を、私は校門で呼び止めた。
「また問題出してくれますか」と言うと、先生は「はい、またいつか」そう言ってくれた。確かに言ってくれた。
桜がぼちぼち散り終えた道を歩いていく背広を見送りながら、そこに確かにひとつ、結び目が生まれたのだ。
あれから六年が経つ。沢山の糸と出会った私は、思いのほか沢山の結び目をつくってしまった。大切な人といるほど、結びたい気持ちは強くなる。
しかし今、そういう人生もいいんじゃないかと思うのだ。塊だらけのごつごつした糸でも、思い出せない結び目があっても良い。だって、たとえ百分の一だって、先生の糸を引っ張れば、八年前の結び目が確かに引っかかるから。結び目だらけの人生だって、それを忘れた頃に一つずつ辿って、たまにほどいてしまうのも良いじゃないか。結び目ミニマリストなんて、やっぱり私には似合わない。
だから、次に会った時、問題を出すのは私の方だ。
『約束の最大値はなんですか』
たまには、算数もいいでしょう。