第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2022年
第27回入賞作品

佳作

78枚の遺産 渡辺 惠子(63歳 主婦)

 令和四年の十二月一日。父の二十二回目の命日を迎えた。父の位牌に手を合わせた後、引き出しに収めていた茶色の封筒を取り出してみた。この中には父の遺産が詰まっている。
 父は昔から奇想天外な言動で周りを驚かせたり笑わせたりするのが大好きな人だった。
 私の人生は生まれた瞬間からオチが付いた。父は私が母のお腹にいる時から、女の子なら「美惠子」という名前を用意していた。
 娘が誕生してから父は毎日、朝に晩に私の傍に張り付き、顔を食い入るように見つめていたそうだ。
 生後二週間経ち、父は悩みながら役所に出生届けを出しに出かけた。用紙に私の名前を書きかけた時、突然、父の耳元で、「『美』を取ってしまえ」と、神様の囁きが聞こえたらしく、急きょ私は、「惠子」という名前に変更されてしまったのだ。  私は物心ついてから、事あるごとに父からその話を聞かされてきた。
 それからこんなこともあった。あれは私が高校三年生の時。大学受験のために毎日遅くまで勉強していた私のところへ父がたばこをふかしながら現れた。
「落ちても、落胆するんじゃないぞ。自分の出来が悪かったら優秀な男と結婚して、そいつに聞けばいいんだ。一つ屋根の下で暮らして夫の脳みそを利用すれば楽勝じゃないか」
 父は励ましにも慰めにもならないセリフを言い残して部屋を去っていった。
 父はいつもジョークで言葉を包みながら、世の中の現実を私に突き付けてきた。そんな父のもとで育ってきたせいか、私は夢を見ることのない青春時代を送った。しかし、その副産物として、私は少々のことではへこたれない強い人間になれた。
 あれは父が還暦を迎えたばかりの頃だった。父が私に神妙な顔で言った。
「実は今、お前に贈る遺産を作っているんだ。わかるところに入れておくから、お父ちゃんが死んだ後、お前が生活に困った時に開けなさい。約束だぞ。」
 それから半年も経たないうちに父が脳出血で倒れた。ようやく回復の兆しが見えてきた矢先に、今度は脳腫瘍が見つかった。病気を患ってから亡くなるまでの七年の間に、父はやつれ果て、元気な頃の豪快さは、いつしか見る影もなくなっていた。
 父の納骨が終わり、実家の遺品整理をしていると、仏壇の引き出しから表に「惠子へ」と書かれた長方形の茶封筒が目に留まった。
 手に取ってみると、一センチほどの厚みがあった。私は居ても立っても居られず、とうとう封を開けてしまった。
 やられた! 私は一瞬、息が止まった。
 中には手紙一枚と一万円札の大きさにカットされた紙が百枚。恐る恐る手紙を読むと、「こら。約束を破ったな。何を期待していたんだ? この不届き者めが。生活に困ったら働きなさい。これはお父ちゃんから惠子へ、最後の渾身のジョークだ。あと何枚、遺産が作れるかわからないけれど、続きは頼むな。バイバイ」と、書かれていた。
 紙には一枚ずつ番号がふってあり、一番から百番まで続いていた。
 一、ウサギとカメの物語。現実はウサギは昼寝をしてくれない。二、ここだけの話。自分の耳に入るのは百人目だと思え。……そして最後の文言は七十八、失敗とは正解を導くための誰にでもできる最も簡単な手段だ。七十九番から百番までは、何も文言が書かれていなかった。
 私は仏壇の前で百枚の紙を畳の上に並べた。二十二年間で九十二番まで私が続きを埋めた。あと八つ書いたら、百枚の束が完成する。
 私は父の位牌に声を掛けた。
「お父ちゃんの遺産、続きを私が百番まで埋めて、将来私の息子に贈らせてもらうからね。その時の息子の驚く姿を、一緒に眺めようね。約束だよ」