第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2022年
第27回入賞作品

佳作

母との「約束」 阿部 松代(55歳 団体職員)

 八十一歳の母、父が亡くなってからは一人暮らし。近所に住む私は一緒に出かけることも少なくないが、すっぽかされることが多くなった。そして五分前のことも忘れるようになり、病院に行くと軽度の認知症と診断された。覚悟はしていたがショックだった。医師から「たくさん会話をすること。否定せず、安心させてあげること」と言われ、最近、おかしな母を避けがちでいたことを反省した。
 その後の土曜日、近所で開かれる野菜市に行く約束を母としていたが、実家に迎えに行くと母はいない。携帯に電話するとリビングで呼び出し音が鳴る。携帯を持たずにどこかに行ってしまったようだ。どうしたものか考えていると私の携帯が鳴った。夫からで、警察から母を保護しているという連絡があったので車で迎えに行こうと言う。
 その警察署は家から十キロ以上も離れている。母の徘徊、ジムで鍛えた健脚が裏目に出たようだ。警察に着くと母がうなだれている。どう歩いたのか覚えておらず、迷子になって自ら警察に助けを求めたらしい。
 帰りの車のなかで「迷惑をかけてすみません」と何度も謝る母に、夫が声をかけた。
「こんなドライブもいいじゃないですか」
 そして遠回りをして見晴らしのいい大橋を渡ってくれる。身を乗り出して窓外に見入る母の幼子のような顔。今後、こういうことは増えていくに違いないと切なくなった。
「景色、最高じゃないスか、こんなの見れて、お母さんに感謝しないといけないね」
 夫が楽しげに言うと、母は「私のおかげね」と笑う。私も二人にノッて「有難うございます」とふざけてみると「どういたしまして」と母が頭を下げたので、車内が爆笑に包まれた。笑うと元気が湧いてくる。これからはおおらかに寄り添っていこうと誓った。
 実家に着くと、母が「今日はどうして車に乗ったのかしら」と言う。まったく憶えていないのだ。私が野菜市に行く約束をしていたことから警察に保護されたことまでを説明すると、眉間に皺が寄った。
「野菜市? そんな約束したかしら?」
 私がうなずくとため息をつき、頭を抱えた。
「約束はもうしないことに決めた。ああ、どんどん頭がダメになっていく」
 プライドが高く完璧主義者の母にとって、現実を受け入れるのは辛いに違いない。
 夫が明るく言った。
「約束の『約』って『だいたい』って意味でしょ? だいたいでいいんですよ。きっちり守らなくてもいいし、忘れてもいいんですよ」  母が首を横に振り、私を見る。
「約束を破ったら全部が無駄になる。あなたの予定を狂わせることになるじゃない」
「そうしたら、予定していた時間は私の自由時間になるからいいんだよ」
 医師からのアドバイスを頭に置きながら返すと、不安げに聞いてくる。
「だいたいじゃなくて、いつも、全部忘れちゃったらどうするの?」
「私が覚えているから大丈夫。お母さんは忘れていいよ、私が何度も言ってあげるから」
 首をかしげるので、断言した。
「私が全部覚えているから。約束する!」
 すると、母が真面目な顔で言った。
「無理しちゃダメよ。だいたいでいいからね」
 思わず苦笑した。
 今度の週末、母とスニーカーを買いに行くことになっている。毎日のように確認しているが、憶えているときもあれば忘れているときもあって、そのたびにこちらの心も揺らぐ。約束というのは結んだときだけでなく果たされるまでの時間や気持ちも共に束ねられていくようだ。その束は、たとえ約束が叶わなくても心のどこかに残るものなのではないか。決して「無駄」にはならない。
 母との約束は「約束」、本当に買いに行けるかどうかはその時次第。ちょっとワクワクしている。