第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2022年
第27回入賞作品

佳作

でかおとの約束 植村 美子(42歳 主婦)

 息子の発達はでこぼこしています。生まれた時から、理由もなく泣くことが多かったのですが、「いないいないばぁ」をしていると突然、ケラケラと笑いだしました。ハイハイをする月齢になっても、全くする様子がなかったので、息子が好きなものを目の前に見せて、ハイハイを誘うと、ものすごい勢いでゴロゴロと寝返りでの移動が始まりました。おしゃべりも遅く、二歳を過ぎても何の言葉も発しませんでしたが、二歳半を過ぎたころ、「りんごジュース飲む?」と聞くと、「りんごジュースじゃないよ、アップルジュースだよ。」と文章をしゃべりだすこともありました。
 息子は五歳の時に、発達障がい、と診断されました。診断を受けた時はショックでしたが、父親が、「障がいではなく、彼の個性だよ。」と言ってくれました。その言葉の通り、息子は私の心配をよそに、苦手なことはとことん苦手でしたが、好きな事に関しては、ぐんぐんとその個性を発揮しました。
 息子は水の生き物の本を愛読していました。その中で、一番興味をもっていたのが、ドジョウです。やがて息子はバケツと網をもって近所の田んぼで生き物とりを始めました。メダカやゲンゴロウ、フナなど、様々な生き物をとってきては水槽で飼うようになりました。水槽に向かって、「おはよう、おなかすいた?」とか「お留守番ありがとう、寂しかったね。」と生き物達に毎日声をかけます。
 ある日、息子はとうとう念願のドジョウをとってきました。「でかお」という名前をつけ、その日以来、でかおは息子の大親友になりました。ドジョウは穏やかな生き物で、愛らしいヒレと髭があり、水の中を滑らかに泳ぎます。争いを嫌い、他の魚とも寄り添って暮らしているようにみえました。
 でかおが我が家に来て、一年が経った頃、でかおの泳ぎ方に異変が現れました。息子によると、ドジョウは腸で呼吸するため、ガスがたまって、てんぷく病という水に浮いてしまう病気にかかりやすいとのことでした。それから、どこで調べたのか、息子は整腸剤を溶かしたバケツに、でかおを入れて、毎日看病を始めました。
 しかし、努力の甲斐もなく、でかおは天国へ行ってしまいました。息子が初めて経験した、愛するものとの別れでした。「なんだかよくわからないけど、寂しい、心が苦しい。」と毎日のように泣いて過ごす日々が続きました。
 数か月経った頃、息子は再び、ドジョウを飼いだしました。私は、でかおを失った悲しさを紛らわすために、新しいドジョウを連れて来たのだと思いましたが、そうではありませんでした。息子は、「でかおのてんぷく病は治してあげられなかったから、今度こそ治す方法を研究する。てんぷく病を治す方法を見つけるって、でかおと約束したんだ。」と話してくれました。突然変化を起こす息子らしく、それからは泣くことはなく、今まで以上にドジョウや他の生き物の世話を熱心にするようになりました。
 大晦日の夕方、息子と生き物とりを兼ねて一緒に散歩に出かけました。かつて、でかおがいた水路には、小さなドジョウの赤ちゃんがたくさんいました。「この水路には、でかおの家族がたくさんいるみたいだね。」と私がいうと、「そうだね、ここは、でかお水路だから。」と息子が言いました。そして、網を水路の水に3回ほど左右に揺らした後、パンパン、と両手を叩いて、お辞儀をしました。私が、「何をしたの?」と聞くと、「水路には神様がいて、一年の終わりにこうして感謝の気持ちを伝えるんだ。僕はこの水路で、でかおと出会えたから。」と答えてくれました。
 息子の心の中には、でかおとの約束が刻まれているに違いありません。その約束の力できっとドジョウのてんぷく病の治療法を見つけるでしょう。そしてこれからの彼の人生を支えてくれるだろうと私は信じています。