2022年
第27回入賞作品
優秀賞
妹が生まれた日 清水 文子(80歳 自営業)
妹が生まれたのは、桜が満開の四月十日だ。わたしとは十四歳も離れている。戦争未亡人になった母が養父を迎えて生まれたので、正確には異父妹になる。
いまから六十年余り前には、自宅でのお産がふつうだった。
わたしが学校から帰ると、祖母は台所で、大きな釜二つにお湯を沸かしていた。
湯気の蒸気でもうもうと煙った厨房に、突然、二階の産室から高らかに産声が聞こえた。
「産湯お願いしまーす。元気なお嬢さんですよー」それは産婆さんの声だった。
「よかった、よかった。無事に生まれてよかった」祖母は大きなやかんにお湯を取り、何回か二階への階段を上り下りした。
嫁の再婚、出産にはあんなに反対だった祖母。でもいまは安産にほっとしたのか、涙さえ浮かべている。赤ん坊の存在は偉大だ。
一段落すると、祖母はわたしを二階へ手招きした。ちょうど学校から帰ってきた弟もいっしょに産室に入る。
産湯を満たした盥(たらい)で、ピンク色のまるまる太った赤ん坊が、手足をバタバタさせている。
弟は、中学一年になったばかりで、帽子も学生服もブカブカだ。
わたしと年子の弟は飽きもせずその小さな生き物の動きを見続けていた。ふっと、わたしは思い出した。弟と数日前に交わした約束を。果たして弟は覚えているだろうか。新しく始まった中学校の新生活にボーとなって、忘れてしまったのではなかろうか。
産婆さんから赤ん坊を受け取った母は、乳房をガーゼで拭き清め、サクランボのような小さな唇に乳首を当てた。赤ん坊はすぐにしゃぶりつき、懸命に吸い出した。甘酸っぱい乳の匂いが漂った。だれにも教えてもらわないのに、と、感心した。
「かわいいなぁ」「いくら見てても飽きんわぁ」
大仕事を終えた母は嬉しそうに微笑んだ。
「三人兄妹になったんじゃけぇ、よろしゅう頼むよ。かわいがってやってね」
その言葉に私と弟はうなずいた。
「いくらでもおんぶするし、おむつも取り換えるよ」「ぼくはおむつは苦手じゃけぇ、姉さんにまかす」その返事に母はハハハと笑う。
制服を脱いで友だちのところへ遊びに行くという弟のセーターの裾(すそ)を掴んで、廊下の端へ連れて行った。わたしたち姉弟は、養父のことを『おじさん』と呼んでいた。
「あんた、約束したこと覚えとる?」
「……覚えとるよ」「言うてみて」
弟は、そっぽを向きながら、「赤ん坊が生まれたら、『おじさん』と呼ばないで、『父さん』と呼ぶことにしようということじゃったよ」
口を尖らして応える。ちゃんと覚えていた。
「そう、今日、生まれたんじゃけぇ、今日から呼ばないと、一生おじさんと呼ぶようになるよねぇ」どうも男の子というものは、母親と密着度が高い。おじさんに母親を取られた気持ちは、わたしより何倍も強いらしい。
「まっ、あんたも中学生になったんじゃけぇ、そろそろ母さんから卒業せんとねえ」
「怒るよ。とっくの昔に卒業しとるさ。おじさんが自分の家を捨ててうちに来てくれて、ぼくはいつも感謝しとるんじゃけぇ」
「よう分かっとるね。それじゃあ今日からあの人を『お父さん』と呼ぶことにしよう」
いつまでも『おじさん』と呼んでいたら、妹が育った時、不審に思うだろう。
夕方、弟は友だちの家から、桜の小枝を貰ってきた。その桜を母の枕元へ飾った。
『おじさん』は、写真を撮りまくっていた。みんなで赤ん坊を囲み、はいチーズで記念写真を撮った。新しい家族の誕生だ。
「お父さん、お母さん、おめでとう」
姉弟で息を整え、セーので、難しい言葉が始めて言えた。心臓がトクトク音を立てている。
父母は顔を見合わせ、ぽかんとしていた。
その晩、父と母は嬉しくて眠れなかったそうだ。