2022年
第27回入賞作品
大賞
スクワットの誓い 濱本 祐実(61歳 主婦)
不仲な両親と、離婚後の母の苦労を見て育った私は意固地で、人に頼ることがとても苦手な人間だった。悩みも困難も人の力を当てにせず乗り切れ、と自身に言い聞かせてきた私に、「俺がいる。俺に頼ったらええ」と手を差し伸べてくれたのが、夫だった。
肩肘張った人生にも、とうとう終止符。
物事とは、そう簡単には進まないものだ。
結婚後すぐ夫は隠れて借財を作り始め、いつしか、毎日がうわの空状態になっていた。八年後に白旗を掲げて告白してきた時、それは彼の年収を遥かに上回る額に膨らみ、ショックを通り越した私は呆れ笑いするしかなかった。「よく、あんな約束できたね」と。
いやいや、人に頼るなどと考えた私が間違っている。ここは元の自分に立ち返り、誰にも頼らず粛々と生きればいいではないか。
そう割り切れれば、どれほど楽だっただろう。目の前には叱られた子ザルのような夫と、事の重大さがまだ理解できない七歳の息子。借金と共に残されたのは、大小二人の子どもの命をつなぐミッションだけだった。
先ずは借入れの詳細把握と事後処理に奔走した。そんな中、追い打ちをかけるように阪神大震災が起こったのは、夫の告白からわずか三か月後。地震の影響で私の仕事は止まり、毎日の生活の心配は絶望へと暗転した。
泣きたい、泣きたい、泣きたい。
そう叫ぶ心を、唇をかみしめて押し殺す。命を永らえた自分は泣ける立場にいない。泣いたらバチが当たる。そうやってこらえるそばから、目が熱くなる。
家が無事なだけ、二重ローンにならないだけ自分は幸せなのだ……けれども真実の姿は、二重ローンを抱えたのとほぼ同じ。
夢も目標もかなぐり捨て、仕事を探し、糊口を凌ぐ日々が続いていたある日、息子が小さな緑色の紙を差し出してきた。震災から数か月過ぎた、私の誕生日のことだった。
「これプレゼント。使ってね」
手作りの封筒の中には同じ色のカードが十数枚、たどたどしい文字が書かれてある。
『かたたたき券150発』『おつかい券』『そうじします券』『もんく聞きます券』『一日クイーンになれます券』『いざという時券(ぼくのお年玉つかっていいです)』
まだまだ笑えるような券が沢山。どこで覚えたのか、裏面に『一日一まいしか使えません』とまで書いてある。息子は、憔悴していた私を見ていた。プレゼントを買えない分、彼なりの精一杯の愛情をこの手作り『特別無料券』に込めてくれたのだ。
「ありがとう、大切に使わせてもらうわ」
「うん。それでね、僕がお母さんのオムツも替えてあげるから、年取っても安心してね」
アハハと顔で笑い、心でボロボロ泣いた。
まだ彼女すらいない年齢だから優しい言葉も出るけれど、大人になったらきっと忘れる。それでも、その気持ちでどれ程救われるか……本当にありがとう。
その夜、息子の寝顔に誓った。
『君が自分の足で立てるまで頑張るわ。命があれば絶対乗り切れる。何年かかるかわからんけど、あきらめず前に進も。ついでやから、お父さんも一緒に支えたげようか』
あれから27年、難破しかけた船で私は荒海を何とか乗り切り、老後の生活の目途もそこそこに立てた。やりたかった趣味も始め、肩凝りもひどくなってきた。そろそろ、あの『かたたたき券』の出番かもしれない。
だが息子はとうに自分の人生を歩んでいる。つまり券は使用期限切れ。
それでいい。それこそが私が約束を果たした証、親としての一番の勲章だ。
ひとつ残されたのは、あの約束。だが、あれは彼に守らせるわけにはいかない。私は死ぬまでオムツをつけない覚悟でいるのだ。
さあ、今日も明日もスクワットに励もう。約束を果たさないために。