第26回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2021年
第26回入賞作品

佳作

祖母の秘密 渡辺 惠子(86歳 主婦)

 「当店自慢の料理で御座います。熱いうちにお召し上がりください」
 女将さんが大振りのお椀をすすめた。
 早速、蓋を取ると鯉の輪切りが入っている。私は息をのんで見つめていた。
 すると、課長は私が遠慮して、箸を付けないとでも思ったのだろう。
「今夜は渡辺さんの歓迎会だから、遠慮しないで食べなさい。ここの鯉濃(こいこく)は天下一品なんだよ!」と自慢気にすすめた。先輩達も美味しそうに頬張っている。私だけ「鯉濃は頂けません」と言うわけにはゆかない。
『鯉様ご免……』と口の中で呟き、恐る恐る鯉濃を口にした。初めて食べる鯉濃は、味噌の風味と鯉の白身が調和し意外に美味しい。
 実は、私の生まれた所では、鯉に畏敬の念をこめた『鯉様信仰』と言うものがあった。勿論、迷信のようなものだが、端午の節句に鯉幟を揚げない、男の子に鯉の絵柄の着物を着せない、など鯉に纏わることは一切ご法度。まして鯉を食べるなどは論外とされていた。
 ところが、私の複雑な心境など知る由もない課長は、飲むほどに酔うほどに饒舌になり、酒焼けした鼻の頭を撫でながら、おどけた仕草で宴会を盛り上げていた。
 ――こうして歓迎会は無事に散会した。
「またのご来店をお待ち致しております」女将さんは満面の笑みを浮かべ宣伝のマッチを配っていた。私は何気なく受け取り、家路を急いだ。
「随分遅かったね。心配してたんだよ。ところで、何を御馳走になったの?」
祖母は矢継ぎ早に尋ねた。
「鶏鍋を御馳走になったの。とても美味しかった」と平然と嘘をついた。
 嘘がばれずに済んだ安堵感と、歓迎会の疲れで私は泥のように寝入った。
 翌朝、凄い剣幕で私を叩き起こした祖母は、
「惠子、とんでもない事を仕出かしたね!
これは、一体何なの!?」
と昨夜のマッチを突き付けた。マッチには『鯉料理』とデカデカと書かれていた。
 迂闊にも私はマッチを何処かに置き忘れて寝てしまったらしい。揺るぎない証拠を突きつけられては弁解の余地がない。私は歓迎会の出来事を全て打ち明けた。祖母は黙って聞いていたが、ふう~っと溜息を付き、
「そう言う事情なら仕方ない。だが鯉様を食べたことは紛れもない事実だよ。だから鯉様に詫びに行かねば、罰が当たる!」と睨んだ。
 しかし、私自身が鯉様信仰をしていたわけでは無い。全く理不尽な話だと思ったが、
「罰が当たる!」
と言われては後々まで気持ちが悪い。
 乗り合いバスにガタガタ揺られ、『鯉の明神様(高椅明神社)』にたどり着いた。
 祖母は神前に手を合わせ、ぶつぶつと何かを唱えている。私も祖母に倣い手を合わせた。祖母は長々と祈っていたが、深々と頭を垂れ神前を下がった。その顔は、『罰が当たる』と怒った人とは別人のように優しい顔つきで、「これで万事良し」と微笑んだ。
 帰りがけに祖母が茶店に誘った。
 堅物の祖母が茶店に入るとは珍しいと思いながら暖簾をくぐった。
 早速、好物の草団子をすすめた祖母は、おもむろに話し出した。
「実はね、お祖母ちゃんも、拠(よんどころ)無い事情で最近、鯉様を食べてしまったんだよ。だが家族の手前、示しがつかないから黙っていたんだが、今朝、惠子を叱りつけた私自身が良心の呵責に耐え切れず、惠子をだしにして、鯉様にお詫びに来たんだよ。お陰で気分が晴れ晴れした」と打ち明けた。
 驚いた私は草団子をごくりとのみこみ、祖母の顔をまじまじと見た。
 すると祖母は、
「このことは、皆には内緒だよ」
とペロリと舌を出した。
「……!?」私は、無言でうなずいた。