2021年
第26回入賞作品
佳作
バアチャンズのストリートピアノデビュー 菱川 町子(77歳 無職)
「ストリートピアノってかっこいいね。やってみたいな。ピアノ教えてくれない?」
三十年近く付き合ってきた霧子さんの頼みだ。断る理由などあろうはずもない。思えば私の九ヶ月に渡る忍耐の修行はこの日から始まった。
街角に置かれたピアノを通りがかりの人がふらっとやって来て、楽しそうに弾くのを見て、霧子さんはピアノって簡単と思ってしまったらしい。彼女は一度もピアノを弾いたことがないから、そう思うのも無理はないが。
七十二歳にして初めてピアノを弾く彼女だが、小学校からピアノを習っている私と連弾ならなんとかなると思った。人生で初めてピアノというものを経験する彼女にかっこうの曲を見つけた。「聖者が街にやってくる」だ。ドレミファソの五つの音しか出てこない。しかも有名、弾いて楽しい超初心者向きの曲だ。この曲ならできる。二人で一宮駅コンコースでストリートピアノを弾こうと約束した。
早速霧子さんにピアノのレッスン。
「ドミファソー はい。やってみて」
「ドってどこ?」
私はひっくり返りそうになった。おいおい、そこから始めるの?だが無邪気な彼女の顔を見て、何も言えなかった。
ピアノの指使いは基本中の基本である。ドは親指、ミは中指、ファは薬指、ソは小指と説明すると、彼女の頭はドレミと指使いでパニックになった。
「違うよ、ミは中指で弾いてね。人差し指ではだめだよ」
「違うよ、中指……」
「ちがう!」
彼女はふざけているのではない。真剣だ。けれどたった四つの音を弾くだけで悪戦苦闘している。私は心の中で叫ぶ。「もー、いい加減にしてよ!何回言ったらわかるの!」練習が終わって帰る時彼女は言った。
「今日は楽しかったわ。来週来ていい?」
彼女の常識は一週間に一度、私の家で三十分ぐらいやればいいらしい。私は三十年付き合ってきた彼女に、やめようと言う決心もつかないまま、苛立つ気持ちを誤魔化し作り笑いで頷いた。
霧子さん夫婦と私達夫婦は、ゴルフ仲間だった。私はまるきり下手でボールではなくピンを飛ばすような珍プレー続出だったが、笑い転げながらの楽しいゴルフだった。
彼女は夫に先立たれ娘も他家に嫁ぎ、一人暮らしの私を何かと気にかけてくれる。近くに住んでいて、何の気兼ねもなくおしゃべりできる得難い友なのだ。約束を守る事は三十年の付き合いの中で生まれた友情を大切にする事だ。やれるだけやってみようと決心した。
それから一週間に一度のレッスンが始まった。三か月でなんとか両手で弾けるようになったが、私が伴奏を入れるとパニック。テンポを速くするとパニック。曲の最後を盛り上げようと二小節付け加えるとパニック……。私はひたすら我慢につぐ我慢の修行。
「ピアノはね。一回練習したら紙一枚分うまくなるの。百枚重ねればうまくなるよ」
これは彼女を励ます言葉であるけれど、自分に言い聞かせる言葉でもある。一歩進んだかと思えば、二歩後戻り、亀の歩みのレッスンだったが、九ヶ月後、なんとか人に聞いてもらえるようになった。
そして遂にストリートピアノのデビューの日を迎えた。一宮駅コンコースに設置されたグランドピアノから「聖者が街にやって来る」のメロデイが軽快に鳴り響いた。通行人は足を止め、三々五々聞き入っている。演奏が終わるや否や盛大な拍手。二人のばあちゃんは紅潮した頬で恥じらいつつ拍手に応えた。霧子さんの顔は今まで見たことがないほど輝いていた。