2021年
第26回入賞作品
佳作
臆病という名の勇気 伊藤 豪英(49歳 会社役員)
一子(いちこ)侘助(わびすけ)という名前の、寒い季節に濃紅色の小さな花を咲かせる椿がある。この椿に関してネットで調べてみると、例外なく「愛知県の医師が発見し、夫人の名をこの椿に命名し発表した」と載っている。愛妻の名を新種の花に、なんて古い小説にでも出てきそうなロマンチックな話だ。私事で恐縮だが、私の祖父もかつて愛知県の片田舎で開業医を営んでいた。そして椿の研究家でもあった。つまりこの椿の名の元になった一子さんは、他でもない私の祖母なのだ。祖母は侘助の花に似て小柄で、とても愛嬌のある人物だった。一方、祖父は明治生まれには珍しく180センチの堂々たる体躯を持ち「白は白、黒は黒」の超頑固な性格。家族や患者達から畏れ敬われた人物だった。だが件の椿の話からもお分かりの通り、頑固なハートに溢れんばかりのロマンチシズムを秘めていたのは想像に難くない。
そんな祖父は実に86歳まで医師として働き94歳で亡くなった。勤勉かつ趣味にも没頭する人だったが故、孫が水入らずで話をする機会など殆ど無かったが、それでも一度だけ、私と祖父の二人っきりで、膝を突き合せて話をしたことがある。三〇年以上も前、私がまだ中学生だった時のことだ。
「お婆ちゃんの入院が長引いてお爺ちゃんすっかり落ち込んじゃってるから、たまには顔を見せてあげなさいよ」母にそう言われ、私は電車で1時間以上離れた祖父の家を訪ねた。
こたつの反対側に私が座るやいなや、祖父は大きな肩を震わせながら声を絞り出した。
「部屋にある何を見ても彼女が使ってた時の姿を思い出してしまう。湯呑みも、座布団も、小説も、テレビのリモコンも……」呆気にとられる孫の存在など一切気にせず、頑固なロマンチストは目に涙を浮かべていた。
「こんなに離れて暮らすのは戦争の時以来だ」
話の急な展開にいささか戸惑いつつ、私は黙って祖父の話に耳を傾けた。
「戦争中、家族は疎開し、わしは東京の陸軍病院で働いていた」(そういえば母から、自分は疎開先で産まれたと聞いたことがあった)
「だが一度だけ、軍医として台湾との間を往復する船に乗ったことがある。その時、わしは絶対に生きて帰る、死んでなるものかと心に誓って乗船した。だから敵機があっちから撃ってきたら此処に隠れて、こっちから撃ってきたら此処に隠れてと、絶えず考えていた」
戦争なのに随分と臆病な話だな、と少年心に思ったのだろう。私は祖父に質問した。
「お爺ちゃんは医者なんだから死んだら撃たれた人の治療が出来なくなるからでしょ?」
祖父は予期せぬ孫の反撃に目を瞬かせたが、しばし黙考した後、力強い声で答えた。
「そうだな、勿論それもある。だがわしは必ず帰ると約束したんだ。だからそれが一番の理由だ。だがな……」話には続きがあった。
「後で聞いたらわしが乗った船の装甲なんて、銃弾は簡単に突き抜けてしまう代物だったらしいんだよ」そう言って祖父はハッハッハと大きな声で笑った。私は兎にも角にも祖父に笑顔が戻って良かったと思った。
その後、祖母は無事退院したのだが、退院するなり、彼女は私に向かってこう言った。
「病院は最高だったわよ。四六時中お父さんと一緒にいなくて済むんだから。退院の前夜は泣いちゃったわよ」まことに、知らぬが仏である。
最後のくだりはご愛敬として、コロナ禍に見舞われて以来、散歩の途中などに椿の花を目にするたび、祖母の顔と、「絶対に生きて帰る」と語った祖父の顔を思い出す。
最前線で命懸けで戦う人々に最大級の敬意を払いつつも、そのための技術も力も持たない私に出来るのは「生き残る」という誓いを貫くことだけだ。今、私達は自分のため、愛する人のために「生き残る」と心に誓う。マスクをして手を洗い、そしてちょっぴり人と距離を取る。生きるために臆病になることは、決して恥ずかしいことではないのだから。