第26回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2021年
第26回入賞作品

優秀賞

約束せずに花束を 成松 聡美(58歳 病院職員)

 毎年クリスマスイブになると、夫はチューリップの花束をプレゼントとしてくれる。この贈り物は三十年以上、一度たりとも忘れられた事がない。十二月に夫が注文の電話を入れると、顔馴染みの生花店主から、
 「またチューリップですか」
とため息交じりに言われるらしい。別の花を薦められることもあるそうだが、夫は常日頃から、
 「クリスマスにはチューリップ!」
と言い張る男なので、おそらく生花店でも同じ台詞を繰り返しているに違いない。イブに夫が初めてチューリップを買ってくれた頃、私たちはまだ結婚していなかった。東京と九州に離れて暮らす二人にとって、クリスマスを一緒に過ごすことには特別の意味が込められていた。その年の十二月二十四日は木枯らしが吹いて、耳がちぎれそうな程に冷え込んだ。街中にクリスマスソングが溢れる夕暮れ時、駅前には露天の花屋が出ていることに私は気が付いた。薄暗い歩道に花を入れたバケツを並べた、軽トラックの花屋だ。
 「お花買ってあげようか」
寒風の中で立ち止まった私が、花ばかり見ていることに気がついたのだろう。夫がおずおずと言った。彼はまだ院生で、私は社会人になったばかり。花を買う余裕などなかったけれど、その心遣いが嬉しくて、私は赤いチューリップを三本だけ買ってもらった。夫の住む築三十年の木造アパートに、チューリップはちっとも似合わなかった。安物の花瓶の中で居心地悪そうに、くたんと下を向いていた。それでも私は張り切って、玩具のようなコンロでブイヤベースを煮こみ、ガスストーブの上でローストビーフを焼いた。あの頃、若い女の子の憧れる聖夜は、夜景の美しいホテルでフレンチを食べ、空色の小箱に入ったアクセサリーをプレゼントされることだったから、私たちのイブは至って慎ましくささやかなものだった。手作りのディナーを食べながら、私たちはお気に入りのクリスマスソングを片端からかけた。ラストクリスマス、クリスマスイブ、そしてレノン&ヨーコのハッピークリスマス。
 「見て見て!」
歌いながら、私はチューリップを指さした。部屋がすっかり暖かくなったせいだろう、萎れていたチューリップは、しゃんと首を上げ、ふっくらと開いている。私たちは顔を見合わせ、大声で笑った。
 あれから三十四年が経つ。二人は恋人から夫婦になり、木造の賃貸アパートではなく、鉄骨の戸建に住むようになった。冬が近くなると、毎年私は玄関前に大型コンテナを据え、チューリップの球根をどっさり植えつける。夫はクリスマスイブに、チューリップの花束を私に差し出す。
 この花へのこだわりや、イブの花束について、夫婦で話した覚えはない。何か約束したわけでもない。ただ、三十四年前のイブに吹きつけていた北風と、夕闇に包まれた軽トラックの花屋を、夫は今もある種の感慨を持って思い出すのだろう。その証拠に、夫は花束を差し出しながら、必ず私にこう尋ねる。
 「さて、今年のチューリップはどう?」
 年を経るにつれ、イブの花束は大きくなり、美しいリボンや和紙でラッピングされるようになった。だが、あの古新聞にくるまれた三本のチューリップより豪華な花束を、私は貰ったことがない。そして、夫と私がイブの贈り物について、口に出して約束をかわすことはこれまでも、これからも決してないはずだ。言葉にした瞬間、スカイプもラインもなかった時代に遠く離れていた若い恋人たちの寄る辺なさは、全くの別物に置き換えられてしまうだろう。約束はしない、という無言の約束を互いの胸にしまいこんで、今年もクリスマスイブがやってくる。