2020年
第25回入賞作品
佳作
妻との約束 山田 幸夫(72歳 無職)
昨年の結婚記念日のこと。
テレビに映し出される懐かしい風景を観ていた。画面には、上空から捉えた北アルプスの稜線が広がっている。カメラは、穂高連峰の稜線を這うようにゆっくり旋回し、移動する。涸沢カールから梓川、上高地へと……。
うっとりと眺めている私に、妻が何ら脈絡のないことを言い出した。
「もう四十年よねぇ。私の辛抱のお陰よね」
感慨深い言い方のようだが、彼女が得意とする憎まれ口だ。私も何か言い返そうとした時、四十年前のことが脳裏に浮かんだ
結婚を機に登山を止めることを彼女と約束した。しかし、その一年も経たずに破ってしまったことを思い出したのだ。
私が、登山に夢中になったのは、十八歳の時だった。上高地から眺めた雪の残る山々に魅了されたのである。山行は、友人と二人のことが多かったが、その友人が結婚した時、彼の連れ合いから言われた。
「山田さん、私らに子供もできるし、これからは、うちの人を山に誘わんといてね」
私は、内心では(僕の方が誘われるんだけどな)と思うも、それから、私の単独行が始まったのである。
数年後、二十九歳になった私も結婚することが決まり、彼女から登山を止めることを言われた。最後の山行との約束で厳冬期の穂高へ向かった。全ての景色が白銀に覆われた世界を記憶に留めておきたかったからだ。
それを最後に、山への未練を断ち切ったはずだったが……、そうはならなかった。
結婚した翌年。軽い気持ちだった。大事な人との約束を破っている意識はなく、山行の計画を立てた。それでも、少しは罪悪感があったのだろう、コソコソと準備をして嘘をついて出かけたのだから。
さすが、冬山は避けた。万が一のことが頭に浮かび、雪の消えた上高地から入り、蝶ケ岳のヒュッテに宿泊した夜、雨音を耳にした。翌日、朝陽のさす穂高の山稜を眺めていると、広がる雲海の中に人が浮かんでいるのを見た。両手を挙げ大きく振ると、それは同じように動いた。ブロッケン現象の輪の中に立っていたのだ。その神々しい光景は、山との別れの暗示のように思えた。同時に「嘘はいけないぞ」と言われている気がした。
下山して、上高地バスターミナルで小学生の男の子を連れた母親と出会った。母子に山で出会うのは珍しい。不思議と会話が弾み、母親は、この地にやってきた理由を初対面の私に話した。
夫は、登山が好きだったが、結婚を機に、最後の山行にするつもりで登った厳冬期の穂高縦走中に亡くなったのだと言い、七回忌の二月には雪が深くて来れず、この連休に来たのだと言う。誰かに聴いて欲しかったのだろうか、留まることなく話した。……あの時、引き止めなかったことを、今も後悔していると、苦しそうに吐露した。
私は、妻に内緒で山に来たことが急に後ろめたくなり身体を固くした。
河童橋で最後の記念写真を撮り、松本行のバスに乗った。背後に未練を感じながら、もうこの地へ来ることもないだろうと思ったとたん、嘘をつき約束を破ったことが、後悔の塊となって襲ってきた。
――私の子供たちも成人し、登山を再開することも考えたが、約束を破ったことが大きなトラウマになり、妻に言い出せなかったのだ。そんなところに昨年、結婚四十周年を迎えた。記念の旅行に選んだのは上高地。旅先で約束を破ったことを打ち明けると、
「知ってたわよ。上高地、河童橋での写真を見たわ。でも、それ一度限りだもんね」
と責めることなく微笑んでくれた。そして、上高地を散策しながら、「五月の山って綺麗ね」と妻は言い、両手を広げ、空気を思いっ切り吸って吐いた。その姿が美しく見えた。