第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2020年
第25回入賞作品

佳作

約束の光 山田 直子(42歳 公務員)

 34歳で乳がんになった。まさか私が。なんで私が。答えのない問いが何度も何度も頭の中を駆け巡る。まだ子どもは3歳と6歳。夫が一人で家事も育児も仕事もこなすのは途方もない。
 初診から悪夢のような展開で結果が出続けた。腫瘍は大きく、そして悪性。手術は全摘一択で、おまけにリンパ節にも転移していた。50%くらいの生存率をもっと上げるために抗がん剤治療と放射線治療が必要になった。
 親が弱ると不安にさせるから、子どもたちのまえでは平気なふりをした。その反動なのか、お風呂場や布団の中で、一人になるとよく泣いていた。心が悲鳴をあげるみたいにとめどなく、わんわんと泣いた。切り取られた身体、毛のない頭、どす黒い顔、どんどん元の姿から離れていく。少し動いただけで眩暈がひどく、手足は盛大にしびれ、爪は膿んで、痛くて辛くて寝ているだけの自分を自分で許せなかった。すべてが罰ゲームみたいだった。もう限界だ。暗闇の中に光は見えない。周りの全ての人たちが羨ましくて眩しくて関わる気になれない。これ以上、どこにも進めないし、頑張れない。今まであった確かなものを、完全に見失ってしまった気がした。
 子どもを残して逝かないといけない私と、子どもを抱えた病人として生きていかないといけない私はどちらも50%の確率で未来に存在する。せめてどちらの私が残るのか教えてもらえたらいいのに。それなら、今は何を踏ん張ってやり過ごせばいいのか定まるような気がするのに。誰も答えを持っていない。希望が絶望に変わるのが怖くて、希望的観測を自分で叩き壊す日々だった。
 きっと人生には何個も何億個も岐路があって、でもどちらの道を辿っても、大きな終着は似たり寄ったりなのだろう。例えば寝坊した朝も、しなかった朝も、必ず夜は来るし、一日は終わる。分岐した川の流れが大きな流れをなし、やがてすべて海に流れつくように。
 人生のどんな道を通ったとしても、絶対に守りたいこと、最優先事項だけは押さえておくと、自分を見失わずに日々を生きられると思った。私の最優先事項は何だろう。それは、子どもたちだ。あの子たちと離れることを、なにもしてあげられないことを、淋しく悲しい思いをさせることを考え始めてしまうと眠れなくなるほど苦しいからだ。子どもたちが幸せに生きるために私ができることをすると未来の私と約束しよう。たとえ未来の私が生きていても、死んでしまっていても、大切なもの、譲れないものは変わらない。
 子どもらしく過ごす時代を守りたい。自分は愛されていると思ってほしい。不安なときや困ったときに頼れる大人が必ずいると知っていてほしい。自分を好きであり続けてほしい。子どもたちに対する一つ一つの願いを実現させるために悩んでいる暇はない。人生は不意に暗転することも、気が付いたら佳境に入ることも経験済みだ。毎日、大切な人を抱きしめよう。どんなあなたも大好きだと伝えよう。まずはそこからだ。
 そして8年が経った。約束があったから生きてこられた。約束への思いがあったから、踏ん張ってこられた。子どもたちは14歳と11歳になり、抱きしめているのか、抱きしめられているのか分からないほど身も心も大きくなった。日々の出来事や、映画や本や音楽のことを、大切な人と語り合えることが信じられないほどの幸運だと私は知っている。
 選びたくて選んだ人生ではない。病気になってよかったなんて思えない。それでも、病気になったことで知れたことや、見られた景色がある。失ったものや損なったものよりも、見たことのない景色の中を進んだ日々で得たものに目を向けたい。
 何度も未来の私と今の私の人生は交差する。交差するたびに揺れるけれど、それでもその度に約束を交わそう。どんな未来にも希望の光を見失わないために。