第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2019年
第24回入賞作品

佳作

「あと十五年です」 木村 武雄(66歳 無職)

 岳父は余命を告げられ、自宅療養をしていた。お見舞いに行った時、寝床から年賀状を取り出し、差出人の名前を読み上げてくれと言う。緑内障もあって、視野が狭くなっていた。始め何のことだか理解できなかった。会社勤めの頃は三百枚近くあった賀状も二十年も経つと、五十枚程になっていた。一枚ずつ差出し人の名前を読み上げると、岳父は天井を見つめたまま考えながら「うん」と頷いたり、無言であったりする。私はそれを受けて区分けしていく。それはもうすぐ来るその時のために、連絡してほしい人を今のうちに決めておこうというものだと途中で気づいた。果てしなく長い時間のように思えた。別の世界に入り込んでいるような静けさだった。別れがすぐそこまで来ているようだった。「うん」に仕訳された賀状は十二枚だった。
 そんな出来事から十五年が過ぎた。
 それからまだ二十二年前になる。入社当時部門は違うが上司で、その後岳父となる人物の自宅を訪ねた。地図とウイスキー片手に連絡もせず。何故か一度、飲んでみたいと思っていた。話が弾み、酔いつぶれて泊まることになってしまう当時を思い出していた。あの時、この人物が私の羅針盤になった。
 賀状の整理が終わり、沈黙に耐えかね「向こうで復、飲み明かしましょう」
 と、思わず言ってしまった。あっ、と思った。お互い覚悟しているとはいえ、死を改めて告げているようで残酷な言葉。永遠の別れを意味している。岳父はちょっと驚いた顔をして
 「ほう、それはいつ頃だ?」
 天井を見つめたまま言った。
「…三十年位後になると思います」
「三十年はどこからくるんだ」
「今、平均寿命から計算しました」
「わしは少し足らんかったなあ」
 少し目元が緩んで「そうだな、二人の娘が嫁ぐまでは、君も頑張らんとな。孫の顔も見たいだろ」
「はい、宴の用意をして待っていてくれますか?」
 また余計なことを、私は沈黙が怖かった。
 「わかった。用意して待っていよう」
 「いつものウイスキーでお願いします」
 「そうしょう」
 私はもう堪え切れなくなって、声は出さなかったが、涙が溢れ出てきた。岳父は黙って天井を見つめていた。
 それからニケ月後、岳父は逝ってしまった。十二人の方には電話や葉書で連絡をした。
 葬儀の時、二人の孫娘は棺の岳父の顔を撫で回し、花を捧げ、キスをした。それには一同驚いた。孫たちにもこんなに愛されていたのだ。
 身の周りの整理を手伝っていた時、私宛の手紙が出てきた。目が不自由なので、字は乱れていたが
【君との約束は覚えている。三十年後の宴。君こそ忘れるなよ。いつものウィスキーは用意しておく。それまでは、ばあさん、娘、孫達のことは頼んだぞ】

 あれから十五年経ち、残り十五年になった。去年、おじいちゃんっ子だった次女は結婚した。幼い時、いつもおじいちゃんと手をつなぎ、結婚するとはしゃいでいたのに裏切って結婚した。でも、式の自分のテーブルにおじいちゃんの写真を、その前にウイスキーを置いていたのには驚いた。
 私も去年退職し、毎日が日曜日の生活。お酒は弱くなったが、当時のグラスは割れずに今も残り、いい響きを出している。遺影は今も微笑んでいるし、あの約束は覚えておいてくれるだろう