2019年
第24回入賞作品
佳作
私のナイトさん 香川 花子(45歳 家庭教師)
「また、おめーは!」白河の祖父が、掘りごたつの中から靴下を取り出して祖母に渡す。「あ、それ、お婆ちゃんのじゃなくて、私の」祖母と私は顔を見合わせて笑う。私と祖母は靴下を脱ぐ癖がある。逆に祖父は、毎朝きちんと磨いた革靴を履く紳士的な人だ。祖母をとても愛していて、街中で撮った祖母の写真に、達筆をふるって「白河のオードリー」と書き、アルバムにしていた。私は幼い頃から、祖父の顔を見ては幸せそうに笑う祖母を見るたびに、祖母に癖までそっくり似ている私も幸せが約束されているようで嬉しかった。
それなのに。「私、あんたのこと、好きだねぇ」ファミレスで祖母は目の前の彼にそう言った。私は、前日に行った母校のインカレで、ボート部時代のコーチだったこの彼から告白された。私は断ったつもりだったのだが、彼にはそれがうまく伝わらず、付き合い始めたつもりになった彼が、実家まで付いて来てしまったのだ。私の戸惑いをよそに、祖母は、3人分の定食を勢いよく食べる彼の上半身を嬉しそうに眺めていたけれど、彼の足元は便所スリッパだった。彼は、大学の備品のロッカーで燻製を作ってしまう人だったし、私は、そんな無人島にいそうな彼との生活は考えられなかった。祖母と彼は楽し気だったが、私は彼を断ろうと思いを固めていた。しかし、彼を見送る時に深刻な顔をしていたからか、先に彼から「安心してくれ。幸せにする。約束する」と言われて小指を出されてしまい、気まずさに、咄嗟に小指を絡めてしまった。
数か月後。彼に誘われてアパートに遊びに行くと、テーブルが一つも無かった。私が不安気な顔をすると、彼はすぐにテーブルを買って来てくれたが、しかし、カーテンも無かった。アパート一階の彼の部屋で食事をしていると、通りすがりの人に見つめられた。私が「もう無理です」と言うと、彼はすぐにカーテンを買って来て「これからはカーテンのある生活をしよう。大丈夫だ。幸せにする」と言ってくれたけれど、一つ一つ、全てがこんな調子で、気付くと7年が経っていた。
その間も、親や親戚が反対する中、祖母は堂々と「コーチは元気かい?私は直感で、あの人、いいと思ったよ」と言い続けていた。
その年の秋。彼と「恋占いの石」で有名な京都の地主神社に行った。「恋占いの石」とは、膝の高さほどの2つの石が、10メートルほど離れて立っていて、片方の石から反対側の石に目を閉じて歩き、無事にたどりつくと恋の願いが叶うという願掛けの石だ。前にいた数組のカップルは、彼女が「あー、そっちじゃないよ」と応援したり、彼が途中で人目を気にして恥ずかしそうに目を開けてしまったりしていた。そんな中、その石を見た私の彼は「よし!これをやるぞ」と言って手拭いを出し、片方の石の前に立つと、狙いを定め、手拭いで目隠しをし、次の瞬間。思い切り、10メートル先の石めがけて走り抜けた。そしてあっと思う間もなく、彼は、ゴールの石に思い切りぶつかり躓いて、大々的に転んだ。若いカップルが「ヤダー!」と笑っているのが聞こえたけれど、彼は地面に転んだまま目隠しを取って、ゴールの石を確認するとガッツポーズをして「やった!やったぞ!やった!やった!」と大きく叫んで、大きな笑顔を私に向けた。その瞬間、私は、人目を気にせずに私だけを見てくれている彼に、急に胸がいっぱいになって「ああ、私はこの人と結婚するんだ」と思ったら、恥ずかしいのと同時に嬉しくて、泣きそうになった。
私が7年も結婚を悩んでいる間に、祖母はベッドで寝たきりになっていたけれど、それでも祖母は変わらず彼の味方だった。彼を連れて行くと、祖母はニコニコして彼の手を握り「ナイトさん、よろしく頼むよ」と言った。それが、私達に向けた最期の言葉だった。
「またか!」今日も夫がこたつから私の靴下をつまみ出す。大きな笑顔。この人に選ばれた私はとても幸せだ。約束をありがとう。