2019年
第24回入賞作品
佳作
破られた約束 中山 恵美代(50歳 主婦)
「昼間は絶対泣かない」新しい自分に、私が最初に課した昼間の約束だ。あの日、前触れもなく突然私の体にやってきた病気「脳出血」によって、尊い日常は壊れてしまった。昨日までの自分がすっかり変わってしまうなんて、考えた事もなかった。スーツにパンプス、資料でいっぱいのバッグ。いつもハツラツとしていた私は消えた。ヨダレを垂らし、呂律が回らず、体を自分で起こすことも出来ず、おしっこ袋をぶら下げた私に、お見舞いの人が次々来る。困惑した仕事仲間の表情、涙を堪える友の後姿、変わり果てた私に、何て言っていいのか戸惑う気持ちが、ひしひしと伝わったから決めた。「昼間は絶対泣かない」。その約束は、優しい人達への礼儀でもあった。長い入院生活で泣かない技も身につけた。余計な情報は一切排除。あんなにやっていたSNSも見ず、検索もテレビもやめた。一人で余計な事を考えぬよう、リハビリ以外の時間は自主トレに励み、本を読み、病院の人達とのコミュニケーションに勤しんだ。しかし、ヒョンな事から目頭がじゅわぁ~っと熱くなってしまう事も。それは大抵、今までたやすく出来ていた、例えば髪を梳かすとか、納豆を混ぜるとか、自動販売機に百円を入れるとか、そうゆう些細な事を失敗した時、それが溜まると、不意に涙がこみ上げる。ある時リハビリ室で、沢山の患者さんがいるのに、わんわん泣いてしまった。その時先生に言われた一言。「笑っちゃいな」「とりあえず一回笑っちゃえば終わるから、笑っちゃえ」温かいご指導だった。この方法で、私は泣かない為に笑う術を習得した。そして繰り返しやってくる長い長い病院の夜。ずっと天井に愚痴り、カーテンに語り泣く。涙の膜が張りついた目で見る世界は、もう一人の自分が遠くから見て哀れんでいるようだった。そして朝。朝が来ると不安な気持ちをかき消すように前向きな私を装って、嘘笑顔の毎日。嘘でも演技でも、前向きは、体の回復に効果抜群。リハビリは、頑張れば頑張るだけみるみる結果が出て、4ヶ月経ちついに退院。久々の外だ!無菌じゃない色んな空気を吸える!眩しい世界に戻ってきたぞ?
退院して間もなく、私は会社に挨拶に行くために、久々にお洒落をしたかった。「服はこれで、そうすると靴はこれ!お気に入りのパンプスを履いてみよう」「あっ、だめか。こっちはどうだ?おっこれもダメ。あぁ…」とうとう履ける靴はなくなり、病院の時の運動靴だけになってしまった。スーツに運動靴、ダサい。玄関で一人、涙が止まらなくいた時「お母さん、泣いていいよ。辛い時は我慢しないで泣いちゃいな、我慢しちゃだめだよ」びっくりした。大きな手になった息子は、そのあったかい手で、私の背中を随分長い間さすってくれた。泣き虫で弱虫だった息子の前で「私が」泣いた。いつの間に、こんなに大きくなったんだろう。思えば彼が高校受験の真最中に私は倒れ、パパが単身赴任の為、受験も卒業式も入学式も、彼は一人で行った。入学や新学期に関する書類は、手が動かない母のかわりに、自分が大人っぽい字を書いた。部活も入らなかったのは、家事や私のリハビリを手伝わなければと思ったからだろう。弱っちい男の子だった君に、母は救ってもらった。「昼間は絶対泣かない」その悲しい約束は、君の優しさで破られた。"私、鳥のように飛んでいます。心が軽くなって羽根が生えたみたい。好きなことに向かって飛んでいます。大好きなスニーカーを履いて。泣きたい時には泣いて、本当に笑っています。"
約束は、新しい自分を築く為に時には壊しても破ってもいいと思う。塗り替えられた約束で未来を明るく染めるんだ!何度でも。もう高校生。いや、まだ高校生の君に約束。いつのまにか「何でも自分でやる」そして「母を守る」硬い決心をしていた君に。重い荷物をそっと手放して思いっきり羽ばたく勇気を捧げる?それが私の次の約束だ。