2019年
第24回入賞作品
佳作
父に惚れた男 渡辺 惠子(60歳 主婦)
二〇一九年十二月一日。父の十九回目の命日を迎えた。夫と二人で仏壇に手を合わせていると、あの時の一コマの光景が鮮明によみがえってきた。今から三十六年前、私たちの結婚披露宴の余興で、父は加山雄三の「君といつまでも」を歌った。そしていよいよあの名セリフ、「幸せだなァ、僕は…」が入るところで、突然父のアドリブが飛び出してきた。
「正樹君、本日より恵子は、『返品不可』となります。自分の想像していたものと全く違っていた場合でも、一度お持ち帰りになったものは、当方では一切関知致しません。また何らかの原因でトラブルが発生致しました時は、正樹君の自己責任で修復をお願いします。万が一、不良品だった場合でも、交換の品は、ございません。その節は自分の運命だと潔く諦めて、最後までご愛顧お願い申し上げます」
爆笑と喝采の渦に包まれた会場の中で、夫は涙ぐみながら口を一文字に結び、拳を握り締め、父をじっと見つめていた。
あれから長い長い歳月が過ぎ、私はふと、夫に尋ねてみたくなった。
「なあ、あの時、あなただけ笑っていなかったけど、何で?」
すると夫は、神妙な顔をした。
「君のお父さんの気持ち考えたら、笑えるはずないやん」
夫はそう言いながら、父とのエピソードを語り始めた。それは結婚式の一週間ほど前のこと。父は私に内緒で、夫を飲みに誘ったらしい。そして二人で、二杯目のビールを飲み干した後、父は夫の前で急に姿勢を正した。
「うちの娘をもらってくれて、ありがとうな。これから気が遠くなるほど長い共同生活が始まる。その間には夫婦喧嘩をしたり、相手の嫌なところが見えてくる局面に遭遇したりすることもあるだろう。半世紀以上の夫婦の旅路の中で、脇目も振らず嫁さんを愛し続けるなんて至難の業や。僕から君に、一つだけ頼みがある。もしも君が、違う花に目を奪われた時、それを娘には絶対に悟られないようにしてほしい。これから先、何か君に困ったことが起きたら、娘には内緒で相談に乗るよ」
父はそう言って、夫に深々と頭を下げたという。その時、夫は、「この人を悲しませるようなことは、絶対にできない」と、心に誓ったらしい。
実は私も…。結婚式の前夜に、父から言われたことがある
「明日から正樹君のことを、『恵子』というスナックの常連さんだと思って接しなさい。彼は雨の日も風の日も、そして会社でどんな嫌なことがあっても毎日仕事に行って、お前に給料を届けてくれる。彼にどんな失言をしようが、どんなに不味い料理を出そうが、黙って永遠にお金を払い続けてくれる上得意さんなんやで。そやから彼が朝、出勤する時は、心の中で、『ありがとうございました』と言いなさい。ほんで帰ってきた時は、心の中で、『いらっしゃいませ』と言いなさい」と。
今の時代ならこのセリフは、女性蔑視の差別発言などと言われて、大炎上するだろう。
あの時の私は、父特有のジョークとして、聞き流し、気にも留めていなかったが、歳を重ねるに連れて、父のこの言葉が、私の頭をよぎるようになってきた。
「私なあ、この三十六年の間に、あなたに対して腹が立ったことはいっぱいあったんやけど、そんな時に、なぜかお父ちゃんが登場して『文句言うな』って、私を睨むんよなあ」
私の言葉に、夫は苦笑いをした。
「俺もや。何かある度に君のお父さんの顔が浮かんできて、なかなか悪いことでけへん。俺、お父さんだけは裏切りたくないんよ」
「何やそれ。私に対しては、どうなんよ?」
虫の居所が悪くなってきた私をよそに、夫は声高らかに笑った。
「君には悪いけどなあ。俺、君よりもお父さんの方に惚れてたかもしれんわ」