2018年
第23回入賞作品
佳作
鈴虫 中西 彩稀(17歳 高校生)
鈴虫を初めて見たのは、たぶん小学校二年生の夏休みのことだったと思う。私は父の実家である埼玉の祖父母の家にいた。恐らく何回も訪れているだろうその家は、幼少の記憶がひどく曖昧である私にとってかなり新鮮なものであった。暦では鈴虫の鳴くような秋の初めだというのに、埼玉は息もできないような暑さで、まさに猛暑と言うに相応しく、私は冷えピタを貼りながら扇風機の前に座り、見慣れないその部屋を見渡していた。
ふと、虫の鳴く声が聞こえた気がした。気になって立ち上がると、その声は止まってしまった。「おばあちゃん、部屋の中で何か鳴いたよ。」私は祖母にそう聞いた。すると祖母は微笑みながら、「この虫が鳴いていたの。鈴虫って言うんだよ。」と言い、部屋の隅を指さした。見ると、そこには大きな虫かごが置いてあった。言われてみれば確かに、鳴き声はそこから聞こえてきていたかもしれない。私の住む場所より少し都会じみた雰囲気のあるこの家に、こんなに大きな虫かごがあることに少し驚いた。
そもそも我が家は父以外は女で、虫を捕まえるという行為にあまり興味がなかった。当然、虫かごとは縁がなかったのだ。「これ、すごく大きいでしょう。あなたのお父さんのものなのよ。」祖母はそう言っていた。意外だった。あの父にもそんな時代があったなんて。祖母は他にも父についてたくさんの話を聞かせてくれた。今ではもうあまり覚えていないのだが、祖母が話している間中、鈴虫が絶え間なく鳴いていたことはよく覚えている。初めて聴くその鳴き声は、とても不思議で魅力的だった。夏を感じさせてくれるセミも私はとても好きなのだが、秋を漂わせる鈴虫もまた、良いものだと思った。「この音色、きれいよね。そんなに気に入ったのなら、来年もおいで。おばあちゃんとの約束よ。またね。」
祖母がそう言った通り、私達家族は次の年も、その次の年も、鈴虫の鳴き始める季節になると埼玉を訪れた。祖母の家に行くと毎年必ず、あのやたら大きな虫かごと鈴虫の美しい音色が私達を出迎えてくれた。そして帰り際は必ず祖母は私に言うのだ。「約束よ。またね。」
何度か季節は巡り、私は小学校を卒業した。そして中学校入学と同時に、父と母は離婚した。あれから今まで、一度も埼玉の家は訪れていない。小六の秋を最後に、私はもう祖父母には会っていないのだ。祖母との約束も、破り続けている。秋になると毎年、あの鳴き声を思い出す。私の住む田舎では、セミがしぶとく生きながらえている。鈴虫の美しい音色はたちまちかき消されてしまう。
これは後から聞いた話なのだが、実は祖父も祖母も虫はあまり好きではなかったらしい。なのにあの家には毎年必ず鈴虫がいた。人見知りだった私と少しでも打ち解けようと、私が気に入ったあの音色を欠かさず聞かせ続けてくれていたようだ。そのことを知ったとき、私はひどい罪悪感にさいなまれ、ただひたすらに泣いた。あんなに優しくしてくれた祖父母との約束を私は破り続けているのだ。なんて不孝者だろう。しかし、自分一人で何ができるというのか。無力感とみじめさでいっぱいだった。
さらに何年か経ち、私ももうじき高校を卒業する。今ならもう、大体のことは一人でできる。祖父母の家にも恐らく一人で行くことは可能だろう。あの溶けるような暑さの埼玉の家は、また私を出迎えてくれるだろうか。私は少し、恐いのだと思う。とりあえず今度、電話をかけてみることにする。家を訪ねるのはそれからにしよう。私はやっぱり、鈴虫の声が聞きたい。あの大きな虫かごと美しい音色、そして何より祖父母に会いたい。六年前を最後に破り続けているあの約束を、今年こそ果たそうと思う。そして今度は私から言うのだ。「またね。来年もきっとまた来ます。」
祖母は笑ってくれるだろうか。