2017年
第22回入賞作品
佳作
『男の約束』 藍畑 紀子(62歳 看護師)
三十五年も昔の子育ての思い出。当時、四歳、三歳、二歳の三人の息子たちと毎日散歩を楽しんでいた。散歩のコースは子どもたちに順番に担当させた。それぞれの行きたい所を決めさせ案内させた。毎日がときめきとはらはら、くたくたの日だった。
次男が散歩コース担当の日はとくに覚悟が必要だ。かっこいい車やバイクが通るものならその後を追いかける。何度息切れをし、道に迷ったことか・・・ そして気に入った車が駐車しているとそこに座りこんで眺め出す。
ある日のこと。黒いベンツが道路に駐車しているのが見えた。そこのお宅は、ちょっと強面の方が住んでいると評判の家でなるべく避けて通っていたのだが・・・
「すっごーい!」 「かっこいい!」と歓喜の声をあげる。まずい、と私が思った時にはすでに走りだしていた。そして後には二人が続いていた。三人の後を追ってベンツの前にたどり着いた時、その車の周りには数人の若者と背広姿の渋い中年男性が立っていた。そこに我が家の年子三人組が歓声をあげて車の周りではしゃいでいる。
これからどんなことが起きるのだろうかと生きた心地がしなかった。とっさに、「すいません」と頭を下げていた。背広姿の中年男性が「かっこいいだろう。これはベンツという車なんだよ」と子どもたちに話しだした。「ベンツ!」と叫ぶ次男と長男。続いて「ベンチ!」と二歳の三男。「おいおい、ベンチは公園で座る椅子」と笑い声。次男が車に近づく。「せいいち!おじさんの車にさわっちゃだめだよぉ!」と大声をあげた私。
「せいいち君というのか。車が好きか」と。「だあーい好き」 「そうかぁ、おじちゃんも車が大好きや。この車はな、おじちゃんの大切な宝物や。せいいち君も宝物壊されたら嫌だろう。だからさわっちゃだめだよ。見るだけ。さあ来てごらん」そう言って次男の手を取ると車のドアを開けた。そして「ほら、これが・・・」と車の中を丁寧に説明しながら見せている。次男の後ろに金魚のふんのように長男と三男が続く。はしゃぐことなく三人は真剣に聞いている。心臓はバクバク、足はガクガク、静止状態の私。
「いいか、他人の車をかってに触ってはならない。これが男の約束。守れるな。見たければいつでも声をかけてくれ」と。
「わかった。男の約束!」 「男の約束」と三人で合唱している。「そいじゃ、またな」と彼は車に乗り走り出した。年子三人組は「バイバイ」と満面の笑みで手を振っている。命が縮まる思いをした私に反して息子たちはうっとりとした余韻にひたっている。
それ以来、年子三人組は散歩中に停まっている車にはけっして触ることはなかった。
次男がまっさきに「男の約束」を、そして三人で「男の約束」を合唱している。
「男の約束」の効果は凄い!
時折、次男はあの日の中年男性の真似をして、「これはな、せいちゃんの大事な宝物なんやだからな、触ったらだめ。いいか、男の約束だぞ。使いたければ声をかけてくれ」 なんて弟にいいきかせている。
「男の約束」というフレーズが幼い子どもたちの心に響いたのだろうか・・・
この日、私は人を色めがねで見ていることを恥じた。人の評判、噂、世間の常識というものさしで人を見てしまいがちだが・・・
強面と評判の方は、紳士的な優しい人だった。なによりも、「他人の物にはかってに触ってはならない」という大切なことを子どもたちに諭してくれた。そして「見たければいつでも声をかけてくれ」と子どもたちと繋がっていた。
約束は人と人が繋がっていく、信頼する中でもっとも大切にしなくてはいけないもの。
幼い子どもたちの心に響かせてくれた彼に私は感謝した。息子たちは「男の約束」のことを覚えているだろうか・・・