第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2017年
第22回入賞作品

優秀賞

須磨までは七百十円 木村 武雄(65歳 無職)

 四半期決算で残業が続いていた。その日、娘は会社の懇親会、その余波で私も外食ということになっていた。食欲はないが、何か食べて帰らなければなどと思っていたら、大阪駅で突然声をかけられた。

 「あのう、七百十円貸していただけませんか?」見ず知らずの人である。ビックリしながら、無視して通り過ぎようとした。そんな常識はずれな事に関わりたくない。ところがである。チラッと見ると七十才位だろうと思われるお爺さんの顔は何とも嫌味のない微笑みだった。それに負けて、立ち止まってしまった。「初孫ができて、須磨まで会いに行きたいのですが、どうも途中でサイフを落としたようで。」と言う。どうしたものかと思った。夜の八時過ぎである。「駅に届けたんですか?」「さっき駅員さんには言いましたが、デパートかもしれませんし、何処で落としたかわかりません。」
「そりゃわかっていたら、そこを探しますよね。」噛み合わない会話である。その態度はおもねるわけでもなし、卑屈でもなく、妙な明るさまであった。和歌山から来たという。引き返す方が遠いであろう。私の中に好奇心が生まれた。「貸すのはいいのですが、見ず知らずの者同士、返すのはどうするつもりなんですか?」この時点で貸すことになるんだろうなと思った。「名刺でもいただけましたら」。「こんな時代ですから、見ず知らずの人にお渡しすることはできません。」「この場所でどうでしょう。」「いつですか?」「あなたの都合のいい日で。」「いつもこの時間にここを通るとは限りませんよ。それともう一つ教えてください。大勢の中でどうして私が選ばれたんですか?」「目の前にいたんです。」
お爺さんはずっと人懐っこい顔でニコニコしている。【走れメロス】が思い浮かんだ。ふと、この邪気のない笑顔に賭けてみようと思った。これで騙されたら、かなりショックだろうと思いつつ、自分の瞬時の洞察力を信じてみたい気になった。大金なら話はまた別だが。ちょうどの額を渡した。返済方法はもう聞かなかった。二、三日はその事を覚えていて、その場所を通るたびに少し緊張した。決算が終わり日常の仕事になると、その場所を通るのは六時過ぎになっていた。

 あの日から五日目の六時過ぎ、お爺さんは立っていた。あの時と同じように人懐っこい笑顔で。こちらに向かってスタスタ歩いてくる姿を見た時、上から目線で試すようなことを言って、申し訳ないと思った。この時間にいるということは、八時過ぎまで待っているつもりだったのだろうと思った。それも今日が初めてとは限らない。日時をはっきり伝えていれば、そんな無駄なことをせずに済んだはずだ。この人は今までに人に裏切られたことはなかったのだろうか。現金の入った白い封筒を渡され「お礼をしたいのですが、ちょっと飲みませんか?」駅構内の居酒屋に入った。「待っていたのは今日で何日目なんですか?」「二日目です。遅くなりました。」私が日時や場所を指定しなかったのはどこか信じていなかったからであり、それを詫びると「約束ですから。」と例の笑顔で笑った。
お爺さんは農業をしていて、お見合い結婚したお婆さんと二人で暮らし、須磨に嫁いだ娘さんと息子さんもいたが、息子さんは二才の時、病気で亡くなったという。この時だけはとても寂しい顔をした。趣味は習字だという。初めてなのに一時間ほど話しただろうか。お酒は強かった。最後に私はどういう脈略か年賀状のやりとりを提案し、住所を交換した。習字が趣味というくらいだから、きっと上手で人柄が偲ばれる字体だろう。今から楽しみにしている。