第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2016年
第21回入賞作品

優秀賞

内緒の約束 遠山 洋平(38歳 公務員)

 息子の手術が決まったのは、ようやく彼が生後6ヶ月になったばかりのときだった。
 通常ならば、生まれた赤ちゃんが「おぎゃあ」と肺呼吸を開始した瞬間から縮み始め、程なくして閉じきってしまうべき心臓の血管が、息子の場合は残ったままだった。早晩手術は避けられず、そのタイミングを定期通院で経過観察しながら見計らうこととなった。
 盛夏を前に息子の体重は停滞し、みるみるうちに成長曲線の下限へと近づいていった。結局2ヶ月間、息子の体重は微増だにせず、そして、主治医より決断が下された。
 入院前日の晩、妻が娘に息子の手術のこと、そして自分も病院につきっきりになることを伝えた。娘は真剣に、驚くほど真剣に話を聞いていた。3歳になりたての彼女は実に口が達者で、起きてから眠りに落ちるその瞬間までずっと喋り続けているような子だった。そんな娘が、ただじっと妻の目をまっすぐ見つめ、黙ってその言葉に耳を傾けている。
 話が終わると、娘はまだお座りもできない息子へと近づき、そっと寄り添った。息子はにこにこと姉を見つめ、娘は弟の頭を撫でながらその耳元で何事かをささやいた。
「何を話していたの?」と私は訊いてみた。
「あのね、内緒の約束をしたんだよ」
「内緒の約束?」
「うん。こうちゃんのこと、お姉ちゃんおうちで待ってるからねって。あとね、こうちゃん帰ってくるまでキウイ我慢するからねって」
 内緒が全然内緒でない件はともかく、娘は三度の飯よりキウイフルーツが大好きなのだった。しかしその言葉の通り、翌日から彼女は決してキウイフルーツを食べなかった。そして病院へも頑として行こうとはしなかった。
「約束したんだもん、おうちで待ってるって」
 甘えたい盛りに母親の不在。でも彼女はひと言も弱音を吐かなかった。のみならずいつも以上に『お姉ちゃん』であろうとした。遊んだあとは言われずとも片づけ、苦手なほうれん草も自分で三口は食べた。そして、夜は私の腕枕で静かに眠った。いつもなら布団の上をごろごろと騒ぎながら喋り倒し、寝入るまでたっぷり1時間はかかるというのに。
 息子の手術は無事に終わり、術後の経過も極めて良好だった。そして、10日とかからず晴れて退院できる運びとなった。
「キウイ、今日は食べちゃおっか」、息子の戻る前日の夜、私は娘に提案してみた。
「……まだこうちゃん帰ってきてないもん」
 娘は目にいっぱい涙をため、そして堰を切ったように泣き出した。私は自分の浅はかな言動を心から悔いた。
「約束は守らないと意味がない」、私たちが常々伝えていたことだった。大切な弟のため、娘はそれを何としても実践しようとぎりぎりのところでがんばっていたのだ。弟の手術がうまくいくように、自分が差し出せるものは何か。彼女なりに必死で考えて出した答えだったのだ。そんな覚悟の程も知らず、軽率に揺さぶってしまった自分が恥ずかしかった。
 翌日、退院した息子と妻を乗せ、家に着いたのは昼過ぎだった。娘は昼寝もせず、助っ人に来てくれていた私の母と共に玄関前で出迎えてくれた。帰りの車でずっと眠っていた息子がちょうどそこで目を覚まし、姉を見て満面の笑みを浮かべた。娘もまた何も言わず、優しさに満ちた笑顔で弟を抱きしめた。いつまでも記憶に留めておきたい光景だったが、私たち大人の視界は涙でひどく曇った。
 その晩、目の前に置かれた山盛りのキウイフルーツを、娘は歓声とため息まじりにうっとりと眺めていた。しかしどういうわけか、一向に手をつけようとしない。
「どうした?」と私は尋ねた。
「うん、明日の朝になったら食べるね。だって夢になるといけないから」
 そう見事なサゲをつけた我が娘は、思い起こせば2歳半の時分に『寿限無』を完璧に諳んじてみせ、我々を大いに驚かせたのだった。