第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2015年
第20回入賞作品

中学・高校生特別賞

父の洗髪 河村 綾音(17歳 高校生)

 一年前の冬休み後半、母が、私と弟二人をリビングに呼びました。母にこのように集められたのは初めてで、何を言われるのか、検討がつきませんでした。いつも明るい母が、真剣な表情で口を閉ざしており、私も弟も何も言えませんでした。何分かの沈黙を経て母が口を開きました。
 「父さん、がんが見つかって。悪性の胃がん。」
そう言い、母は泣き始めました。そして、普段落ち着いている上の弟も、泣いて叫びました。私と下の弟は、信じられず呆然としていました。父が仕事から帰ってきても、知らないふりで、いつも通り迎える、ということになりました。
 父が帰宅すると、皆、いつも通りであるようで、どこかぎこちなく接しました。父も、きっとそれに気づいていたと思います。一番辛いはずの父が、一番明るく振舞っていることが私の心を痛めました。反抗期真っ只中だった私は、心を痛めても、父とは会話ができず、ひどい態度で接することしかできませんでした。
 「明日から入院なんじゃ。」
と父に言われても、へえ、としか返しませんでした。このときの私の態度を、今は本当に後悔しています。
 私は、その頃ちょうど学校で、腫瘍について勉強していました。「悪性腫瘍」が、どれほど危険か。年齢が若いほど進行しやすいか。「低分化」の方が悪性度が高いか。そしてこの「悪性度が高い」というものに父がほとんど該当していることに、絶望感を覚えました。
 しかし、父の見舞いに行くと、いつでも父はおどけた調子で笑っていました。その様子に、次第に和やかな雰囲気が生まれていきました。家族全員で笑って、不安な気持ちも忘れて、見舞いの時間は、いつもあっという間でした。
 手術が近づいてきたある日、いつも通り見舞いに行くと、父に洗髪を頼まれました。
 「いや、できんし、母さんに頼みんさい。」
看護の勉強をしていても、とにかく実技が苦手だった私には、上手く洗髪できる自信がありませんでした。
 「できんなら尚更、看護学生なら必要なんやろ?」
と、父から言われ、父の洗髪をすることになりました。学校で友人の洗髪練習をした以外に、誰かの洗髪を行うのは初めてでした。ついつい恐る恐る洗髪する私に、父は
 「下手下手。頭はまだ全然かゆいわ。」
と呆れた様子で、自分で頭を洗い始めてしまいました。ショックで、その場に立ち尽くす私に父は、
 「もっと患者さんの気持ちを考えられんといけんよ。今度はまた、一人前になって、洗ってな。」
と、次の洗髪の約束をしました。何気ない言葉ですが、私にとっては大切な約束で、看護の勉強をしていると、いつも思い出します。
 父の手術は平日に行われ、私と弟たちは学校でしたが、少しの不安はあるものの、父なら大丈夫、という気持ちが大きくありました。学校が終わり、母と父のいる病室へ行きました。意識のある父は、手術創の痛みで話すことができませんでした。しかし、家族全員の安心した顔が、また和やかな雰囲気を生み出していました。
 私にとっての、小さいようで大きい約束を果たせるよう、父にほめられるよう、今日も勉強しています。約束は、私の原動力となっています。