第26回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2014年
第19回入賞作品

佳作

「彼岸と此岸へ、果たされた約束」 石飛 幸子(59歳 地方公務員)

 「この船を三千万円で海に戻してみせます。」と夫は約束した。それは東日本大震災が起きた年の暮れ、二〇一一年十二月のことであった。相手はロシアの水産会社である。
 漁船で最大級の「鳥海丸」は六五〇トン。元は山形県立加茂水産高等学校の練習船であったが、当時すでにロシアの水産会社の持ち物だった。石巻港に停泊中、津波によって東松島の岸に打ち上げられ、船首の竜骨は民家を押しつぶしていた。船舶保険に加入していなかったため、関係者は対策に苦慮していた。海に戻すにせよ廃棄するにせよ、億単位の費用がかかるからだ。鳥海丸と深く関わってきた加茂水産高等学校の先生方の悲願は、船を生きた形で海に戻すことであった。
 夫は当時、シンガポールの海事会社に通じていた。陸に乗り上げた鳥海丸の映像を見たとき、自分にもできることがあるのではないかと考え、早速シンガポールに連絡した。巨大なゴムチューブを船底と地面との間にかませ、船を引いて移動させるという方法が頭に浮かんだからである。
 ロシアの会社との契約が成立すると、直径二M 長さ八M ~十M のチューブとその技術者達がシンガポールからやってきた。ところが届いた十本のうち二本はすでに破損しており、使える代物ではなかった。また残る八本も頑丈な新品とは見えなかった。作業の先行きに、夫は大きな不安を覚えた。
 シンガポールと日本の作業員は、まず震災の犠牲者の霊に手を合わせた。「どうか安らかにお眠りください。私たちはこの船が生き返るよう力を尽くします。安全に仕事を終えられるよう、見守ってください。」と。
 二〇一二年一月三十一日、作業は始まった。ところが、突然チューブ四本が破裂し、それ以上船を進められなくなった。当然、港湾・海保などのお役所からは作業中止を命ぜられた。鳥海丸の巨体を動かすにはそれ相応の安全対策がなされていなければならない。しかしチューブが破裂した時点で、お役所からのの信頼は崩れた。
 それでも二月の中頃までは、シンガポールの技術者がまだ残っていた。お役所の許可も何とか得られて、四回ほど挑戦した。しかし、また行き詰ってしまった。キールエンドが海底の泥に刺さっていたのである。プロペラが無事だったことだけが救いだった。
 やがてシンガポールの技術者が次々と姿を消す。南国から来た技術者は、東松島の寒さと作業の困難さに耐えられなくなったのである。結局夫が一人で、近くのコンテナーハウスに残り、鳥海丸を守るような形になった。
 マイナス八度のコンテナーハウスで過ごす夜は、あまりの寒さに鳴咽するほどだった。周りには、津波の爪に全てをはぎ取られた後の、凄絶な闇が広がっている。海の底には犠牲者の遺体もまだ埋もれていたはずだ。そんな夜を夫は凍えながら独りで過ごした。
 ある日、夫が船のそばに立っていたとき、慰霊の旅を続けている僧侶の一行に出会った。様々に悩んでいた夫は、僧達と一緒に祈りを捧げた。そして彼岸の人々に約束した。「どうか皆様の分まで、この船を生かしてください。この船が生き返るよう、私は一人でも力を尽くします。」と。
 船尾がめり込んでいた海底の泥を、毎日一人でスコップで掘った。地元の方の協力を得て、二月の東北の海に潜ったのである。地道な作業の末、ようやく船尾が海底から離れた。それでもまだ船全体が動くスペースはなかった。綿密な計算をし、船尾が浮くように船首にウエイトを置き、船を傾ける計画を立てた。
 五月十日、船はあっけなく海へと戻った。台船からのロープが動いた途端、鳥海丸は海底のくびきから放たれたのである。
 一万隻以上の船が津波で失われた中、鳥海丸は自走し、どこかで働き続けているはずだ。これは、夫が彼岸の人々と此岸の人々への約束を果たしたことの、誇らしい証である。