第26回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2013年
第18回入賞作品

審査員特別賞

「もう、ママなんて呼ばない」 野崎 洋光(48歳 会社員)

 美しい名前だと改めて思った。しばらくは呼んでない名でもあった。否、
忘れたの? と言われても何も返せない。私は、子どもが生まれてからは妻のことをほとんど’ママ‘と呼んでいた。営業職に就く私は残業が頻繁にあり、家のことは妻にまかせっきりで、傍目からみれば典型的なワーカーホリックだったろう。
「ママ、シャツはどこ?」「ママ、明日から出張だから!」
「ママ、風邪薬は?」「ママ…」
妻のことをそう呼ぶのはなにも私だけではないだろうが、妻はストレスが溜まると怒った。
「私はあなたのお母さんじゃないの。結婚記念日の時くらい名前で呼んでよね」

 ただ、人間ドックの検査報告書に妻の名前を見た時は残酷だと思った。いつも元気で家族のことを第一に考えてくれている妻が… 乳がん? 後のマンモグラフィ検査によって診断が下された。
――乳房温存手術が可能な2センチ以下の早期がん状態
 絶望的でもあったが、もしも検査時期がズレていたなら転移の可能性も高かったと医師から告げられた時は不思議な安堵感を抱いた。
働く人間の資本が体なら当然、家事を任される専業主婦の資本も体である。
私は会社の’配偶者対象人間ドック制度‘を利用してよかったと思った。助成金も出るこの制度を利用する者は私の会社ではまだ少数派だが、認知度が上がれば社会全体の健康意識の向上、家族の幸せにもつながっていくはずだ。

 私はその日から’ママ‘ではなく、妻を名前で呼ぶことを約束した。入院や手術に向けての準備をしたとしても、所詮、私に病気は治せない。無力の照れ隠しにすぎないが、とにかく妻を名前で呼ぶことにした。
妻は「ようやく思い出してくれたのね。昔に戻ったみたい」と言ったきり。
私の意図を知ってか知らずか、入退院を繰り返す母親を同様に名前で呼ぶようになった二人の息子。
「ルミコはいつ病院にいくの?」
「ルミコ、早く帰ってきてよぉ」
妻は「ママは、あなたのたちのお嫁さんじゃないのよ」と彼らをたしなめる。
長男が「ボク、ママをお嫁さんにするからいいんだ」と返すと、次男が「ルミコはオレのもんだ」と涙ながらに応戦。
「三人の旦那様がいて幸せだわ」と、妻は二人を抱きしめた。

 そんなことを言えるうちはよかったが、容態が急変してしまう。腕のむくみやこぶのようなものが目立ちはじめ、日に日にやつれて倦怠、嘔吐が妻を襲う。
手術前に帰宅する機会が二日あった。
妻が入院してからは、家事を子どもたちの協力を仰ぎながら男三人でやっていが、褒められたものかどうか。
「なんでもできるようになったのね。ニンジンも食べれるようになったし。
 家に三人も’ママ‘がいると、ほんとラクだわ…」
久しぶりに我が家に戻った妻が、いびつなジャガイモと
次男が苦手のニンジンがちゃんと入ったカレーライスを前に微笑んだ。
「うん」とだけうなづく長男。
「ママがいなくても大丈夫ね」と妻が言うと、次男は泣きじゃくった。

 食事の後、妻の両脇でグッスリ寝てしまった二人。
検査報告書に記された妻の名をボールペンで消したのは彼らの仕業だ。
きっと、事実を受け入れたくなかったのだろう。
私が洗いものをしていると、息子たちのうねるような寝言が聞こえてきた。
『ママ… ママ……』
 妻が元気になるまで、私は父親であるとともに’母親代わり‘をしたい。完全にはできないとしても、それは当然の務めである。
 グラスを滑り落としそうになった私を見て、留美子が静かに微笑んだ。