第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2011年
第16回入賞作品

佳作

「男は君だけになるんだからな…」 木村 武雄(59歳 会社員)

 岳父が七十三歳の時、肝臓ガンが見つかり余命三ヶ月と宣告された。本人もその事は知っていた。正月に伺った時、食事をしているみんなの談笑を隣のリビングで聞きながら寂しそうにしていた顔が忘れられない。私は思わずその首にしがみついてしまった。岳父は何も言わなかった。別れがすぐそこまで来ている事をヒシヒシと感じた。
 岳父と知り合ったのはもう三十年前になる。部署は違うものの会社の上司だった。何かの飲み会で席が隣になり、一見怖そうにだがとても人間味のある人物だった。気があったのか、いつの間にか月に一度は自宅に伺うようになり、夕食をご馳走になって帰っていた。奥さんと娘さんも一緒だった。一度は飲み過ぎて立てなくなり泊まることになってしまった。トイレに駆けこみ苦しんでいると、介抱してくれたのは今の妻でありこの時の一人娘だった。当時の事を妻はいつも夕食を食べて帰る常識のない人だと思っていたらしい。だが私はいつの間にか好意を持ってしまった。そして勤め帰りの電車を待って交際を申し込んだ。一人っ子の自覚があって両親に相談するということだったが、結果は父親の反対だった。いつも楽しく飲んでいたが、娘の事になると話は違ってくるようだ。納得出来ず、その理由を聞くため訪ねた。
 「君と娘とは性格が合わん!」当時、会社の文集に頼まれて読書感想文などを出したことが良くなかった。実像と違い実に繊細な文章なのである。わがままに育てた一人娘とは合わないと考えたようだ。それは表向きで、相手が誰でも反対したのかもしれない。肝心の一人娘には「父に反対されたらお付き合いできない」と言われる始末。それから三ヶ月は訪問も途絶え、酒びたりの日々が続いた。毎日二日酔いだった。やがて体調を崩し、そして諦めた。
 人間、自分自身に対してなかなかやるじゃないかと思うことが人生に何度かあってこれはその一つだが、私はある日連絡もしないで訪問した。人生の先達として何処にでもいる人物じゃないと判断したから。娘との交際は許してくれなかったことはともかくとして、門前払いならそれはそれでいいと。
 その日、久しぶりに美味しい酒に酔った。やはり大きな人だと思った。全くシコリを感じなかった。しかし、、この時点ではまだ交際が許されていた訳ではなかった。というより私は本当に諦めていた。それから一ヶ月が過ぎた或る日「明日、畑にジャガイモを植えるので手伝ってくれないか?」と電話があり、意味がよくわからないまま行くと、青天の霹靂。「今でも娘のことが好きか?」私はずっとお義母さんが説得に当ってくれていたとばかり思っていたが、最近になってお義母さんから「お父さんは情け深い人だったから、そんなに好きならと交際を許したそうよ」と聞いた。翌年結婚し、次の年長女が生まれた。
 そんなこの人生にとってかけがえのない人物がもうすぐ遠くへ消えてしまう。正月思わず首に抱き付いてしまった夜、電話がかかってきた。「男は君だけになるんだからな、後の事は頼むぞ」短い電話ではあったが、何を話したのかこれだけしか覚えていない。電話口で泣くのを堪えるのに懸命だった。岳父の言いたい事は痛い程わかった。私は全身の力を振り絞って「はい」と答えた。三十年経った今でもこの岳父との約束は鮮明に覚えている。
 お葬式の時、棺の中の冷たくなったおじいちゃんの顔を二人の孫娘は泣きながらキスをしていた。予想外の出来事だった。孫達にもこんなに慕われていたのだ。私はこの時も、あの時の電話での約束を聞いたような気がした。
 おじいちゃん、約束はなんとか守っていますよ。