第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2011年
第16回入賞作品

佳作

「色のついた世界で」 坂本 泰(18歳 高校生)

 彼はいつも、私より少しだけ駆け足だった。
 青森に住む私の伯父夫婦の家庭には、子供がいない。代わりに一匹の犬がいた。その犬は私が生まれるほんの二十日ほど前に生まれたそうだ。私と同い年のその犬は、私にとって紛れも無く従兄弟そのものだった。
 思い返せば、毎年の夏休みの大半を私は青森で過ごしてきた。祖父母も青森に住んでいるためだというのは確かだが、友達もいない青森の田舎での私の遊び相手は、専ら従兄弟だった。朝と夕方の一日二回の散歩が、毎日の楽しみだった。彼は足が早く、駆けっこでは勝った試しがない。だから、散歩のときも、彼はいつも私より進むのが早かった。幼い頃は、それが何だか悔しかった。
 ある日、テレビで、「犬の見ている世界は白黒である」というのを見た私はとても悲しい気持ちになった。例えば一緒に行った海の青さも、例えばいつもの散歩道の草花の緑も、例えば夏の夕焼けの赤みも、彼は知らないのだろうか。その時私は心に決めた。彼の分まで私が隅々まで世界の色を見ていこう、と。
 毎年毎年、夏休みに彼に会いに行くのは、一年の内で最高の楽しみだった。少し背が伸びた私を覚えてくれているだろうか、などという心配をよそに、毎年私を出迎えてくれる彼がこれ以上なく愛おしかった。様々な場所へ一緒に行った。公園で走り回って、海で溺れそうになって、一緒に食事をして、一緒に寝た。言葉なんか無くても何も不便ではないと本気で思えた。私は彼が怖がりなのを知っているし、私は虫が苦手だということを彼はきっと知っている。彼は私より耳が良いし鼻がきく。だから、私は彼よりも世界の色が多く見えることも必然だと思っていた。
 私と彼は文字通り一緒に育ってきた。彼の方が私より少しだけお兄さんというだけだと思っていた。しかし、毎年毎年少しずつ背が伸びていった私に対して、彼は毎年毎年少しずつ弱っていくのが、私にもわかった。犬は人間の五倍から十倍の速さで年を取るそうだ。ずっと同い年だと思っていた彼は、まるでいつもの散歩のように、私より早く時間を進んでいた。私が中学生になった頃から、彼は食事が制限された。私が声変わりをした頃には、彼はうまく歩けなくなっていた。
 「どうしてもっとゆっくり生きることが出来ないんだろう。」
 そう思っても、月日を重ねるごとに弱っていく彼を、私はどうすることも出来なかった。一緒に歩くと自分より後にいる彼を見て、胸がえぐられるようだった。自分の無力さがふがいないのではなく、純粋に不条理を理解できなかった。最後の夏、彼はきっともう私のことなんか解らなかっただろう。それでも、泣き出しそうな私の顔に彼は笑いかけたような、そんな気がした。
 今年、彼がいない初めての夏を過ごした。私の身長はきっと、昨年とさほど変わっていないだろう。しかし、色々なものを見てきた。世界は、こんなに混乱していても、それでもなお美しい。この色を、この美しさを、どうしたら君に伝えられるだろうか。君からすれば焦れったい程、私の全ては遅いのだろう。それでも待っていて欲しい。君の見えないこの世界の色を見ながら私は、君の分までゆっくりと行きていく。