2011年
第16回入賞作品
佳作
「亡き母との約束」 山田 清一郎(76歳 無職)
お母さん、あの時十歳だったあなたの子供は、今76歳、お母さんが亡くなった年をはるかに超えて生きています。でも私は、お母さんがいくつで死んだのか覚えていません。昭和20年神戸大空襲であなたが”生き埋め“になってから60年以上も過ぎています。 空襲で逃げ込んでいた防空壕が、激しい焼夷弾攻撃で崩れ落ちてきたとき、
「早よう逃げるんや!」と言って、掴んでいた私の手を離し、私を外へ強く押し出した時のお母さんの恐い顔を今も覚えています。
あなたは私を助けるために生き埋めになってしまったのです。
あの時どんな思いであの手を離したのだろうか。そこに母親のわが子への絶ち難い思いがあったのではないかと思うと、今でも私は胸を締め付けられます。
戦争孤児となった私は、同じ浮浪児の仲間達と、戦後の荒れ果てた町で、周囲の人から野良犬のように追われ、バイキンの塊と呼ばれながら、ただ「生きる」ためにだけ生きてきました。
それはまさに、野良犬にふさわしい
「拾うか、もらうか、盗って食うか」の生きざまでした。
あなたが命を犠牲にして守ったわが子のそんな憐れな姿を見たら、どんなに哀しむでしょうか。それでも生きることが母との固い約束であると思いました。
戦争孤児施設を出て社会に放り出されてからも、誰からの援助もなく”たった一人で“生きていくのは、想像を絶する厳しいものでした。
日本人の戦争孤児に対する「心の冷たさ」。多くの人から受けた「非情な仕打ち」を私は今も忘れることはありません。「日本人の心は優しい」などは私達孤児には無縁のものでした。
孤児になった10歳から教師として自立できるまでの17年間、「生きていて良かった」と思えるようなことは殆どありませんでした。何よりも辛かったのは、自分には
「帰る故郷がない、支えてくれる家族がいない」”たった一人“という孤独感でした。
それは多くの孤児が背負う悲しい人生なのです。
何度も「死」を考えながら、それでも「とことん生きてやる」という思いにさせてくれたのは、空襲で焼き殺された父親、自分を犠牲にして私を守り、生き埋めになったままのあなたの無念な思いに対して、
“母さん、ここまで生きてきたよ”と、
母との約束を守って、自分が生きた証しを残したかったからです。
私は母を偲ぶ物は何も持っていません。一枚の写真さえ残っていないのです。
瞼に浮かぶのは崩れ落ちた防空壕の残像と、母がよく歌ってくれた「浜千鳥」の歌、それだけです。
11歳で故郷神戸を捨てて60年以上、あれから私は故郷に一度も行っていません。悲しみと恨みしかない故郷に帰りたいと思わないのです。私にはあの防空壕がその後どうなったのか分りません。今も母は”生き埋め“のままなのだろうか。
6月が来るたびにその悲しさが甦り、私の戦後はまだ終っていません。また、未だに消息不明の多くの仲間のことを思うと、改めて「戦争の傷跡の深さ、平和と命の大切さ」を強く感じています。
ありがとう お母さん。あなたの子どもは見えないあなたとの約束を守って、ここまで生きてました。
あなたはどこにいますか。人は亡くなると天国に行くと言いますが、私にはあの防空壕が天国に繋がっているとは思えません。
あなたはまだあの防空壕の中ですか… 完