2010年
第15回入賞作品
佳作
「三十年後の宴」 菅谷 静子(61歳 会社員)
毎年「迎える誕生日」―それがいつの頃からか毎年「やってくる誕生日」に変わった。そうしてついに昨年、私は六十歳になった。とうとう人並に還暦となったのである。しかしそれは、私にとって人生におけるタダの通過点、特別なことではないと以前から思っていた。六十を境に急に何かが変わる筈もなし・・・・・・・・だが、ハタと考えた。元来イベントごっこが好きな私、これを外して以後自分に何があるだろう?突如そう思いはじめたら、二組の娘夫婦に手作りの招待状を出していた。
晩秋の夕暮れ、赤坂にある洒落た雰囲気の中国料理店に、私たち夫婦と娘夫婦の六人は集合した。姉妹は偶然にも共に出産を控えており、二ヵ月もすれば長女に二人目が、次女に初めての子供が生まれることになっていた。彼女たちの夫も今日のイベントにふさわしく、それぞれ真っ白いワイシャツにネクタイを締め、身重の妻をしっかりとエスコートしてやってきた。
ひとしきり料理を堪能すると、私は用意していた感謝のメッセージを読み上げた。娘たちが理解あるパートナーを得たこと、健康に恵まれていることなどを語り、そして最後に「私はこの先も元気でいられるよう努め、今度は卒寿の宴を盛大に開きますのでお楽しみに!」と宣言した。夫をはじめ、皆にこやかに聴いていた。卒寿といえば九十歳。娘たちは、おそらく愉快な冗談として聴いたことだろう。天命は神のみ知るところだが、しかし私は本気なのだった。なぜなら私の夫は十四歳年下、しかも夫とは再婚で、彼に子供はいない。だから私ひとり、さっさとこの世を去ってしまうことは出来ないのだった。
専業主婦だった私が最初の結婚に終止符を打ったのは、ふた昔も前のこと。娘たちが中学と高校に通い始めたときだった。資格も無く、働いた経験もない主婦に職種や条件を選ぶことは出来なかった。少しでも給料の良いところに就職すれば仕事は過酷で、私は五本の指に余るほど転職を繰り返した。結局昼間の勤めだけでは収入も覚つかず、夜は和服のユニフォームに着替え、割烹料理屋で働いた。世の中がどうなっているのか、ニュースを見る暇もなかった。振り返るといまの夫と一緒になるまでの十年は、私にとって激動の日々だった。
彼は何事も娘を優先する大人であった。娘たちの結婚式には、前夫と共に出席した。次女とは三年間、結婚で家を後にするまで共に暮らした。風呂は一番に、食事のおかずも見栄えのする方を娘に、といった具合で、優しさと許容力に満ちていた。娘たちも自ずと敬意を抱き、いまでも遊びに来ると話が弾む。
そんなふうに今日まで平穏にやってこられたのは、夫と私の価値観が一致していたからという他ない。政治や経済、日常の瑣末なことまで、食事中に話は尽きない。
私は彼とめぐりあったことで自分が認められ、まるごと受け止めてくれる人がいる、という実感が得られるようになった。生きる場所を見出した気がした。
仕事オンリーの夫が唯一楽しみとしているのは、夕食時のワインだ。飲みながら銘柄や産地について、様ざまな話をする。そんな時、彼は実に愉しそうだ。
夫は口にこそしないが、自分の子供を持ちたかったに違いない。だから私は夫を天涯孤独にしないためにも、一日でも長く、元気でいたいと思っている。そうしてワインにも合うような美味しいご飯を作り続けたいと考えている。
私が九十歳を「迎える」頃には、孫も増えているだろう。曾孫も誕生しているかもしれない。そんなみんなを一同に集め、私は夫と共に一世一代の宴を賑やかに開くのだ。
だから私は、これからは歳をとるのが少しもいやではない。三十年後の大イベントに向かって、日々コツコツ生きる幸せを今、かみしめている。