第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2010年
第15回入賞作品

佳作

「戻ってきた諭吉」 西田 洋明(69歳 無職)

 「おじさん、頼むから金貸していなぁ」。
 平成二十二年の夏、私が勤める町の公共施設でピアノ発表会の開催中に無理やり会場に入ろうとしていた路上生活風の若者がいた。
 私は慌てて制止して事務室の隅に連れていった直後の第一声でした。
「ここではお金は貸せないよ、隣の役場に行ってごらん」と教えてあげた。
 失礼な言い方かもしれないが、このような人が来た場合、各市町村では金額的に多少バラツキがあるものの、3百円~五百円を住所・氏名を書いてもらって貸す(実際には与える)と云う内規があるというのを聞いていたからでした。
 しかし、男は黙り込んで動かなかった。
「何処から来たんや?」と、聞いてみた。
「大阪から・・、お金がないのでヒッチハイクしたり、歩いたりして故郷の宮崎まだ帰る途中・・、丸一日何も食べてないお腹がペコペコ・・」など、断片的ではあるが彼の言葉に嘘はないようだった。
 それよりも、彼の話ぶりや態度見ているうち遠い昔の私自身の境遇とオーバーラップしたかと思うと、段々と置き換わっていったのでした。
 半世紀前、私も勤めていた所を飛び出して故郷に帰りもせず大阪駅の周辺で野宿をしていたが、寝ている間に全財産の入ったカバンを盗られてしまったのでした。
 途方に暮れて当てもなく何も食べずに二日間過ごしたが、空腹に耐えかねて悪事に手を染める直前、一人の老婆に救われたのでした。と、ここまで早送りの走馬灯を見た時、無意識のうちにポケットの財布を取り出し、その中から諭吉を一枚男に渡していました。
 後で考えてみると、あの時老婆にお礼をしなかった罪滅ぼしの心理が働いたのかも知れません。
 渡された男は最初はポカーンと云うような顔をしていましたが、しばらくして「これ、ほんとに貸して貰っていいの?」と、二度も三度も聞いてきました。
「いいよ!」と、答えると、「有難う、きっと返すからおじさんの住所と名前を教えて」と言ったので、メモ用紙にここの住所と名前を書いて渡した。
 本気で返してくれるとは思っていなかったのだったが、私の胸の中は長年押さえつけられたような重しが取れた気分になった
 何度も何度も頭を下げて帰って行ったが、この様子遠くから見ていた同僚達は、「馬鹿だなぁ、あんな奴に一万円もやって正気の沙汰かぁ、そんなお金があるんだったら我々をビアガーデンにでも連れていってよなぁー」と、半ば馬鹿者扱いもされたのでした。
 猛暑続きだった夏も往き、そのうちそんな事件があった事もすっかり忘れてしまいました。
 街角にはジングルベルの音楽が流れだした十二月の中旬、会館の私宛に一通の書留小包が届いたが、「はて?」と首を傾げたのでした。差出人に全く心当たりがなかったので、恐る恐る開けてみた。
 美味しそうな吊るし柿の間から一通の封筒が出てきた。
「前略、この夏に会館でお金を借りた○○ともうします。あの後すぐさま駅に行き電車に乗り、その日のうちに故郷の宮崎に帰りまして、今はおふくろと二人で百姓をして生計をたてています。(中略)遅くなりましたがあの時お借りしたお金をお返しします。それからこの吊るし柿、あまりいいものではありませんが丹精込めて作りました。召し上がってください。その節は本当に有難うございました。(以下略)」。
「あの時の言葉はほんとうだった、約束は完全に守ってくれたんだ!」。
 こうつぶやいた瞬間、夏に取れたはずの重しが又乗って来たような錯覚に苛まれたのでした。