第26回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2009年
第14回入賞作品

審査員特別賞

「ハーモニカ」 田口 正男(83歳 無職)

 昭和の初めごろ、ボクは魚屋の小倅(こせがれ)だった。
 当時、両親は東京・山の手の大崎にある百反(ひゃくたん)通り商店街に、六坪ほどの小店を構えていた。子供の時に魚問屋へ奉公に出た父は、多年の修業で身に付いた職人気質が抜けず、商い下手だった。一方母の方は江戸っ子肌の愛嬌が物を言い、客の受けも好かった。小学五年のボクと二つ違いの弟は毎日帰校すると、店の手伝いにこき使はれていた。
 魚屋の晩飯は遅い。よその家で夕食となる宵の口から閉店準備を始め、店をしまい終った後での食事はたいてい夜更けとなる。その夜も母がご飯の仕度に店から引っ込み、まもなく父も奥の居間に上がって晩酌を始めた。ボクと弟は掃除の後片付けやら戸締りを済ませ、やっと晩ご飯にありついた。
「兄ちゃん。ハーモニカ、いつ買うんだい」
「うん、貯金がまだ少し、足りないんだ」
 隣でご飯をかっ込んでいた弟が、いきなり呼びかける。戸惑ったボクは食事の手を止め、浮かぬ顔で生返事をした。
「おいっ。それって、いくら足りねえんだ」
 酔いが回ってきた父が、ふいに横合いから口を挟む。慌てて父を見るボクは、呟くように言った。
「えっ。それがあー、あと五十銭程だけど」
「なんだそれっぽっちか。父ちゃんが出してやるぜ。そうだ、河岸の帰りに買ってこよう」
「ホント? じゃあ貯金全部持ってくるね」
 父の思わぬ約束に小躍りしてはしゃぐボクを、すでに赤くなった酔顔が大きく頷いた。
 その夜は胸がわくわくして、なんどもハーモニカの夢を見た。当時、小学生でも手軽に使える楽器はハーモニカぐらいだったが、ボクの小遣い程度では容易には買えなかった。
 翌日、学校から飛んで帰ると、開店準備に一人で忙しい母に父を尋ねた。母は無言で奥の方へ顎をしゃくる。それに応えたボクはランドセルを背にしたまま、店の上がり框(かまち)から居間に踏み込んだ。眼前には部屋の真ん中で酔いつぶれた父が、だらしなく寝込んでいた。とたんに嫌な予感がして父の傍にしゃがみ込み、その体をしゃにむに揺すって喚いた。
「起きてよ、父ちゃん。ハーモニカ、どこ?」
「なんだ、なんだ。うるせえなっ」
 むっくり起き上がるとその場にあぐらをかいた父は、濁った目でボクを見据えて吼えた。
「そんなもん、知るかっ」
 居丈高に居直る父が憎らしくなり、悔しまぎれに思いっきりののしってやる。
「買わないなら金返せ。父ちゃんの泥棒!」
「なんだとこのガキ。もう勘弁ならねえ」
 ボクの悪態に怒り狂った父はよろよろと立ち上がり、店から出刃を持ちだしてきた。
「親不孝のテメエなんか、ぶっ殺してやる」
 凄い権幕で息巻く父は、慌てて逃げ腰になるボクの肩を捕え、首筋に出刃をピタリと当てた。ボクは忽ち青くなって縮みあがった。
 ただならぬ奥の騒ぎを耳にした母は、仕事着にゴム長のまま居間に駆け込んできた。
「この子を斬(き)るなら、私から殺(や)っとくれ」
 とっさの体当たりでドンと父を押し退け、ボクの前に大手を広げて啖呵を切った。まなじりを決して立ち向かう母の憤激に、父は出端をくじかれた。かってにしろーと、ふてくされたようにやり場のない出刃を店の三和土へ放り出し、くるっと背を向けて部屋の隅でふて寝をきめ込んでしまった。
「恐かったろう。ゴメンよ」
 母がなぐさめる優しい言葉に、ボクはその懐に飛び込んでワーワーと大声で泣き崩れた。
 数日後、二階の三畳で机にしているミカン箱の上に、新品のハーモニカを見付けた。思わず歓声を上げてケースから取り出すと、早速プーカプカやりながら部屋中を踊り回る。歓喜の興奮が冷めてから、ケースに隠れていた紙片に気付いた。取り上げて見たら(後で父ちゃんも可哀想な事をしたと悔やんでいたよ。これで許しておくれ)、鉛筆をなめなめ書いた母の金釘流が乱雑に並んでいた。