2008年
第13回入賞作品
佳作
「家族の風景」 柳平 孝二(27歳 男性)
その老夫婦はいつも決まって6月25日の12時に店にやってきた。
高校を出た私は、街の小さなフランス料理屋でウェイターの仕事をしていた。店内は全部で8席ほどの小さな構えだったが、昼下がりには南向きの大きな窓からは暖かい木漏れ日の射すふたり掛けのその席が年に一度その夫婦の特等席だった。
「今日はなにがお勧めかしら?」
「新鮮なアカヤガラをご用意しています。外側をぱりぱりにローストして、少し酸味の効いたソースでスープ仕立てにお作りしています。」
私と話を進めてゆくのはいつもご夫人の役目で、ご主人はただ隣で「うん」とか「いや」とか短い言葉でご夫人の問いかけに返事をするだけだった。おまけにその朗らかな微笑が印象的なご夫人とは対照的に終始むっつりとしたその表情はどこか怒っているようにすら見えた。
「じゃあそれを2つ。あとはお任せでってシェフに伝えて頂戴ね。」
そうしてグラスにワインが注がれるといつものふたりの食事が始まる。ご夫婦はとてもゆっくりと丁寧に一皿ずつを片付けてゆくので、食後の紅茶を飲む頃にはいつも店はふたりの貸し切り状態となった。
そして見送り際、なぜか私にご夫人が言う。
「今日も本当に美味しかった。来年は何が食べられるか楽しみにまた一年を過ごすわ。」
毎年同じような光景だった。
店を1人で切り盛りするシェフは若い頃フランスで学んでいたらしく、日本に帰ってきてからは奥さんや子供を作る代わりにひたすら料理を作りつづけてきた。
あまり自分の話をしたがらなかったので多くは謎のままだったが、料理に対する愛情は純粋そのものであらゆる妥協を自分に許さなかった。そんなまるで絵に描いたような職人気質のシェフには実は多くの根強いファンがいて、辺鄙な場所に建っている小さな店にしてはいつもお客様で賑わっていた。
あなたとシェフはその生真面目なところがどことなく似ている。と、いつの年だったかあのご夫人に言われたことがある。
俺があの頑固親父と?冗談じゃあない。と内心では思ったが、
「それにこの人も。だけど男の人はやっぱりこうでなくっちゃ。」
そういって愉快そうに目を細める夫人の向こうで、私と同じように苦笑いをしているシェフを見てなにか不思議な親しみを感じたのを覚えている。
思えばあの時、ヒントはそこにあったのだ。
店で働き始めて5年が経ち、私はその店を辞めた。
辞める前に私はどうしても聞いておきたい事があって、思い切ってシェフに聞いてみた。毎年あの老夫婦がやってくるあの日はいったい何の記念日だったのかということだ。顧客名簿を見ても、その日は二人の誕生日でもなければ結婚記念日でもなかった。
すると意外な答えが返って来た。
「誕生日だよ。6月25日は俺の誕生日なんだ。」
その日、5年目にして初めて私はシェフの昔話を聞いた。私がもう辞めるとわかっていたし、いつか誰かに話しておきたかったのかもしれない。
30年前に勘当同然で家を飛び出してフランスに渡ったこと。帰ってきた後も何となく連絡を出来ずにいた父親のこと。その父親が8年前に突然知らない夫人を連れてこの店にやってきたこと。そしてその後一言も口を利かないまま、この奇妙な年に一度の家族会がここまで続いてきたこと。
「言葉」として形あるものは目に見えてしまうから、すぐに信じやすくもありその分疑いやすく壊れやすい。だけどこの不器用なふたりの親子は、そんな言葉にすらならない約束を一年、叉一年と交わしては繋いできた。
「何かいいたかったこととかあったんじゃないんですか?」
「もう忘れたよ。そんなこと。」
世の中にこんなに静かな約束があるのだということが、そのとき私にはまだ実感できなかった。
ただ、そんな儚い脆さで結ばれている二人の孤独な親子の絆が可笑しくて、うらめしくて、帰り道私はひとり声を殺して泣いた。