2007年
第12回入賞作品
佳作
「ルビーのネックレス」 山尾 友子(58歳 女性)
「メイアイヘルプユー?」明らかに日本人ではない男性に、私は声をかけた。駅前の小さなスーパーマーケットの鶏肉売り場に立っている外国人を、私はさっきから見ていた。
この店の経営者は私の夫で数人のパートさん達を取り仕切り、商品の発注に陳列、レジ係から掃除と、何でもこなす店員さん、つまり最強のスタッフが私である。もちろん、お客様からの問い合わせや苦情に対応するのも大切な仕事である。ここのところ、毎晩のように店に来て、鶏肉コーナーに直行し、目当ての品があれば、500ミリリットルの缶ビールも1本買ってくれる外国人は、すでに私の気になる存在であった。今日は目当ての品物が無いらしい。
ビールの売り場を素通りして、何も持たずに入り口に向かって来た。入り口に近いスタッフカウンターの中から、私は思わず声をかけた。上手な発音で、英語らしく、かっこ良く、話しかけたかったのに、私の口からは思い切りカタカナの英語が出た。それでも嬉しいことに彼は反応を示した。憂いを含んだ淋しげな目が微笑み、彼の口から白い歯が見えた。
身振り手振りに、日本語と英語を混ぜて、私達はしばしの会話をした。大阪市立大学大学院博士課程で学ぶ彼は、文部省から奨学金を貰う留学生として、1ヶ月ほど前にベトナムから来たばかりだった。日本語が全く話せない彼は、たった1月足らずの間にすっかりホームシックにかかってしまった。
担当教授の計らいで、箕面にある大阪外国語大学まで片道1時間半もかけて、日本語の勉強に通うことになったと言う。
市大へ行く時も、外大へ行く時も、彼は駅前のスーパーの前を通る。通りながら店の中を見る。彼の目と私の目が合う。
会釈をしていた彼がいつの間にか、ガラス戸の向こうで「オハヨーゴゼーマス」と挨拶をしている。
開店後に私達夫婦は決まってカウンター内で珈琲を飲んでいる。ある日、ガラス越しにこちらを見ている彼に手を振ると、ドアを押して入って来た。「珈琲飲む?」カップを持った手を彼の方に上げると、どうやら理解した彼は白い歯を見せて頷いた。店の前を通る度、出かける前も帰って来た時も、彼はまるで家族のように「行ってきます」「ただいま」と挨拶をするようになった。外大の日本語クラスは半年間だった。
日課の宿題を、彼は店のカウンターの中で珈琲を飲みながら済ませた。私は彼の答えに間違いが無いか、必ずチェックを入れた。卒業の時、彼は留学生総代として、流暢な日本語でスピーチをして喝采を浴びた。(内緒だがそれは殆どが私の作である)
ベトナムへ帰る前日だった。「お姉さん、きっとベトナムへ来ると約束をして下さい」白い歯を見せて礼を言いながら、私の手に赤い石をのせた。「ベトナムのルビーです。地質学博士の私が保証する、純度の高いルビーです」「私が出世したら、必ず招待しますから、その時はこのルビーを付けて来て下さい」それから15年が過ぎた。彼に貰ったルビーは素敵なネックレスとなり、出番を待っていた。
市立大学には毎年新しい留学生がやって来る。最近は学内に国際課ができて、もう外大へ行かずとも日本語の勉強ができる。留学生は昔のように単身ではなく、家族と共にやって来る。「メイアイヘルプユー?」と声をかけるチャンスも無くなった。長い間出番を待ち続けたルビーのネックレスは、政府の要人となった彼の招待を受け、3年前に私の胸で輝いた。ノイバイ空港で出迎えてくれた彼は、毎年仕事で東京へ来るようになった。どんなに過密なスケジュールであろうとも、「15分あります」と言いながら顔を見せに大阪まで飛んで来る。
私達の旅の行き先は「ベトナム優先」となり、ルビーのネックレスはその度に嬉しそうに私の胸で輝いている。