2007年
第12回入賞作品
優秀賞
「ガリガリ小父さんとの約束」 大西 功(72歳 男性)
昭和二十二年一月中旬、十一歳の私は、厳冬の玄界灘を故国へ向かう信濃丸に乗船していた。人いきれで蒸れた船底に、行李や蒲団袋がうず高く積まれ、私たち大連からの引き揚げ者は、それに寄りかかって無聊のときを過ごしていた。
食事のほかは何もすることがない。衣類や寝具を持ち帰るのに精いっぱいで、本や遊び道具はすべて置いてきてしまった。しかし、二日目の午後、ガリガリ小父さんが、子供たちを集めてお話し会を開くと、退屈な時間は楽しいひとときに一変した。
かなりの年配に見える小父さんは、あまりに痩せこけているので、私たちは、ガリガリ小父さんと呼ぶようになった。小柄な弱々しい体躯で、両肩が削げたように下がっている。目つきはやさしいが、顔色は青白く、額は禿げあがり頭髪もまばらだった。
ボロボロの国民服を着て、荷物は風呂敷包みひとつだけである。見すぼらしい身なりは、ひときわ目だっていた。だが、しゃべり始めると、丸くなった背中がピンと伸び、声には力強い張りがあって、船室の隅にまで朗々と響きわたった。
その話術は絶妙の域に達していて、歯切れのいい語り口にメリハリがあり、幾多の登場人物を鮮やかに演じ分けていた。その日の話が終わると、すぐに翌日が待ち遠しくてならなかった。
幼い児童向けの「一休和尚とんち話」や「浦島太郎」「舌きり雀」などの童話、高学年には「ひと口落語」や「鞍馬天狗」などの物語、リンカーンや野口英世の偉人伝を聞かせてくれた。
お話が上手といっても、学校の先生ではなさそうだし、紙芝居屋ともちがう。会社員やお役人とも思えず、商売をする人のようでもない。植民都市・大連では見かけないタイプで、「この小父さんはいったい何者だろう」と首をひねった。
ガリガリ小父さんのお語は、佐世保に上陸してからもつづいた。五日後、彼は語り終えると、私たちのなかに割って入ってきた。
「小父さんの話はこれで終わりだよ。明日はこの収容所ともお別れだからね」と告げながら、三十人ばかりの子供の頭を、ひとりひとり撫でてまわった。
「みんな立派な日本人になるんだよ。そして祖国復興のために力をつくしてください。さあ、小父さんにそれを約束してくれるね」
ガリガリ小父さんのお話をもう聞けないと思うと、たまらなくなって涙がこぼれ落ちた。(立派な日本人)の意味はわからないが、私は泣きじゃくりながら、大きくうなずいて約束をした。
それから二年後のことである。雑音まじりのラジオで「寄席中継」を聞いていた母が、突然、ボリュームをあげた。
「次の出番は古今亭志ん生さんよ。懐かしいわね」
初めて耳にする名前で、だれのことか見当がつかなかった。
「あら、知らなかったの。信濃丸や佐世保で、毎日、お話を聞かせてもらったでしょう」
「ガリガリ小父さんさんのことかな?」
「そうよ。あの小父さんは有名な落語家なのよ」
ラジオにかじりついたが、その瓢々とした酒脱な語り口は、まるで別人のような感じがして、失望に似た気分を味わった。志ん生師匠の落語を聞きほれるようになったのは、成人してからのことである。師は、巡業中の満州で敗戦を迎え、引き揚げるまで大変な苦労をされたそうだ。
この十数年、私は、師匠の命日にあたる九月二十一日に、菩提寺である環国寺(東京都文京区小日向二丁目)に詣でている。
日本は、目ざましく復興し大発展を遂げた。しかし、得たものもあるが、失ったものも多い。道徳や精神面では、むしろ堕落したとしか思えない。自然環境も破壊しつづけてきた。
私には、「ひたむきに働いてきた」との自負はあっても、「立派な日本人になった」と、いささか胸を張るには、抗しがたいためらいがある。これで、ガリガリ小父さんとの約束を果たしたと言えるだろうか。師匠の墓前で、いつも自分自身に問いかけている。