第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2007年
第12回入賞作品

大賞

「父の歌」 関口 光枝(46歳 女性)

 今思い出してみれば、父は音痴だったのかもしれない。

 亡くなって十五年、今でも父との思い出を探る度、胸の底の方がじんわり温くなって来る。娘の私から見ても、父は男前だった。大正生まれにしては長身で、ひざから下などほれぼれする程、長かった。幼なかった頃、近所に住む父の幼馴染から、父がどれ程頭が良かったか、飽きる程聞かされたものだ。父は何せ私の自慢だった。

 その父は、自分は生きても七十才位までだろう、というのが口癖で、残りの十年は自分の好きな様に暮したい、と六十才の時サッサと仕事をやめてしまった。初めは気嫌の悪かった母も、その内父が居る事を当てにする様になっていた。朝から晩まで父が居る生活が始まった。父は家事をそつなくこなし、旅行や趣味を楽しむ事など皆無。ただひたすら慎ましく、家族と居る事を楽しんだ。

 ある時、庭で草を抜いていた父が、何やらブツブツ言っているのが聞こえた。何げなく近付いた私の足はピタリと父の背後で止まりそのまま後ずさりした。「父が歌ってる。」私はそのまま母の許へとんで行った。「お父さんが歌を、歌っとるん」母はくり返すと、父を忍び足で見に行った。そして私同様、後ずさりしながら戻って来た。「歌っとったね」「うん歌っとった」「何の歌かね」「分からん」母によると知り合って三十年、父が歌を口ずさんでいる所など、見た事がないと言う。もちろん私もない。母の顔が険しくなった。「私の言うた事、本気にしたんかもしれん」

 父は若い頃から、母に贈り物などした事がなかった。誕生日と言っても、例外ではなかった。母もそれに慣れてしまい、特に不満も感じなかったが、先日、細いな事で口ゲンカをした折、母は腹立ちまぎれに

 「誕生日じゃゆうても、歌のひとつ、ハンカチの一枚もくれた事ないじゃないね」

 と父をなじってしまったと言うのだ。根が真面目な父である。母の誕生日に特別贈り物をしなくても、折に触れて母の好物の魚を買って来ては自分でさばき、ふるまった。父が母に贈り物をしないのは、ただ父のちょっとした臆病さからだと言う事は、母も私も充分に承知していた。父は母を喜こばせたいあまり、自分の選んだ物を母が気に入らなかったらどうしようと、考えたのである。

 それからというもの、父は庭の手入れや一人で畑仕事をする時、しきりに歌を口ずさむ様になった。母と私は、わざと知らない振りを通した。母や私が近付く気配がすると、父はピタリと口をつぐんでしまうからだ。

 母の誕生日には、少しぜいたくな食卓になる。刺身に煮付け、母はめずらしくワインも口にする。私は小使いを工面して買った細やかなプレゼントを、渡す。いつもの母の誕生日の風景だった。ケーキのろうそくに火を灯す頃、父が小さく口ずさみ始めた。母の真正面で、時折目を浮かせながら、父は母の為に歌を歌った。

 「忘れられないの。あの人が好きよ」

 いつか流行った歌謡曲だった。やっと歌い終えた父は、母に言った。

 「誕生日、おめでとう。こんなんで良かったら、毎年、歌うちゃるけェ。」

 少しずれた音程で、気真面目に歌う父の姿を今でも思い出すと、母は嬉しそうに言う。

 父はその後七回、約束通り、母の誕生日の度に歌った。そして六十七才の冬突然倒れ、数えの七十才の時、生まれ育った家で、何より愛した家族の声を聞きながら、眠る様に逝った。

 ほんの細いなケンカから、母は生涯の思い出を得た。父は母の気持を受け止め、自分から口にした約束を、愚直なまでに、守った。やっぱり父は最高だった。今でも母と、父が歌っている時の話をする。そして出した結論は、父はやはり、音痴だったと言う事だ。