2006年
第11回入賞作品
優秀賞
「魔法の言葉」 田中 仁子(35歳 女性)
「ない。財布がない」。
頭の中は真っ白。目の前は真っ暗。JR線券売機の前で私は呆然としてしまった。これから向かうのは就職希望先の会社。今日はその入社試験日なのだ。家に財布を忘れた。どうしよう。手の中にあるのは、駅までのバスと私鉄の定期券だけ。この駅に私鉄は通っていない。家まで戻るか?いいや、自宅から駅までは、バスの始発・終点の距離である。往復すれば一時間はかかってしまう。もちろん、バスや電車が多少遅れることも想定して、ある程度の余裕を持って出てはきたが、さすがにそこまでのゆとりはない。「駅まで財布を持って来て」とお願いしたくても、家には誰もいないし、電話代さえも持ち合わせていない。ピンチだ。どうしよう。
今でも何故そんな行動をとったのか不思議でならない。気がつくと、駅ビル内の洋服店の前に立っていた。そして、深呼吸を一つして店内に入り、
「あのー、突然すみません。私、先日ここでスーツを買った者なんですが。実は今日これから入社試験があるのですが、財布を家に忘れてきてしまって。必ず、必ず今日中にお返しいたしますので、千円、貸していただけないでしょうか」と、無茶なお願いをしていた。確かにここでスーツは買った。でもたった一度、それも一着だけ。確認せずに飛び込んだので、着ていたスーツがこのお店のものかどうか、今も思い出せない。無礼なのは百も承知だが、その時の私には、ただただ頭を下げる以外なす術がなかったのである。
私の突然の申し出に、営業スマイルの店員さんは一瞬驚きの表情を見せた。が、すぐに大きくうなずいて、
「事情は分かりました。しかし、お店のお金をお貸しすることは出来ません。ですから、私個人がお貸しするということでよろしいでしょうか」そう言って、店の奥から財布を取り出し、五千円札を差し出してくれた。
「千円でいいんです」と言う私に、
「多めに持っていた方が安心ですよ」とすすめてくれ、
「身分を証明するものはこれしかないので」
と学生証を置いて行こうとすると、
「就職試験ですから、学生証は持っていた方がいいですよ」と。さらに続けて耳に入ってきたのは、
「私、お客様のこと覚えています」。
温かい魔法の言葉だった。「覚えています」という言葉が「信じています」という思いとなって、私の心の中にしみこんできた。たった一度だけ買い物をした客を本当に覚えているものなのだろうか。プロフェッショナルとはそういうものなのだろうか。真相は分からない。けれども、目の前に居る私を信じてくれたこと、このことは確かなのであった。
「返すのは今日じゃなくていいですよ」店員さんは笑顔でそう言ってくれたけれど、必ず今日中にお返ししよう、私は心に誓った。信じてもらえた嬉しさと同じくらい、信じてよかったと思って欲しかったのだ。
試験を終え、急いで自宅に帰り、財布の中から取り出した五千円札のしわをのばして白封筒に入れ、再び駅に向かった。お金と一緒に菓子折りを手渡し、無事に試験を受けることが出来たと報告すると、店員さんは自分のことのように喜んでくれ、
「返すのは今日じゃなくても良かったのに。かえって気を遣わせてしまいましたね」と恐縮していた。最後まで優しい眼差しだった。
帰り道、「忘れ物をするっていうのも、たまにはいいもんだな」と思った。忘れ物をしたお蔭で、「人は、自分を信じて待っている人のために、ひたむきに頑張ることができる。そして、誠実な思いは必ず相手に通じる」シンプルだけど大切なこと、それを実感できたのだから。就職して十三年。うまくいかないこともたくさんある。そんな時、あの日に感じた温かさが今も私を励ましてくれる。