2021年
第26回入賞作品
佳作
コッちゃん 鈴木 篤夫(65歳 無職)
私は息子夫婦と三人の孫とで暮らしている。
一番下の孫は女の子で幼稚園の年中組に通っている。「心都」と書いて「こと」と読み、みんなからはコッちゃんと呼ばれている。
コッちゃんは幼稚園から帰ってくると私とよく遊んでくれる。
初夏のあるとき「たいへんたいへん。ちょっとこっちにきて」と腕をとられた。
庭先まで連れていかれると、コッちゃんより背の高い鬼百合がたくさんのつぼみをつけていた。
「ほら、ニンジンがなっているよ」とコッちゃんは興奮しながらも自慢げに見上げる。
こんなとき、私は雷に打たれたように立ち尽くすだけだ。孫と同居している幸せをかみしめる。
上の二人の孫は男の子で、しかも幼稚園のときには別居していたから、心が洗われて、わくわくするような経験は初めてだ。
時間は孫たちの身体にだけ積み重なる。同居しているとそれがミリ単位で分かる。
ある日、夕飯が終わり自室でテレビを見ていた。夜の茶の間のテレビは孫たちに占領されてしまう。廊下に軽い足音がしたと思うとカラリと襖が開けられた。
パジャマ姿で上気した顔のコッちゃんが「じーじ、お風呂上がったよー」と元気よく言った。
私は慌てて吸っていたタバコを消して部屋に漂う煙を攪拌する。
いつだったか夕飯のときに息子と私は、タバコを止めるとコッちゃんに約束させられていたのだった。多分息子の嫁が家族の健康を思い、コッちゃんに言わせたのだろう。
それ以降、タバコは孫たちの前では吸わず、こっそり自室で吸うだけにしていた。
「じーじ、タバコ吸ってる」とコッちゃんが中年女のようにふてぶてしく言い放った。
こんな態度や口調をどこで覚えてきたのだろうと目を瞠る思いだ。
「ママが、たばこは、がんになるって。パパはやめたよ」
「ああそうだったね。パパは偉いね」
なに息子も孫たちの前で吸わないだけで、家の外で吸っているのは知っている。
私は孫たちのために買い置いてある菓子の入ったレジ袋から、コッちゃんの好きなイチゴ味のチョコレートをひと箱取り出した。とたんにコッちゃんの瞳が輝く。
「ママには内緒だよ」
そう言いながらチョコレートを渡した。
「うん、わかった。チョコレートをもらったことは、ないしょにする」
そうかそれも内緒にすることなのかと少しばかりドキッとする。
「いや、それもそうだけど、じーじがタバコを吸っていたこともママに内緒にしてほしいな。これは約束だよ」
「ふふふ、わかっているわよ」
コッちゃんは外国映画の妖艶な女優さながら人差し指をメトロノームのように動かす。
コッちゃんは「じゃあね」といって廊下を走り去った。
私は立ち上がって、開け放された襖に手をかけ、ひょいと廊下を見やった。茶の間からコッちゃんの声が聞こえた。
「ママ、これ、じーじからもらった」
「よかったねー。今日は歯を磨いたから明日にしないね」とママの声が続いた。
「いま、たべたーい」
「歯を磨いたあとは、食べないってお約束でしょ」
「でも、じーじだって、たばこすわないやくそくなのに、いますってたよ」
内緒にする約束も何もあったものではなかった。幼稚園児を物で釣って約束させたのが間違いなのだ。いい歳をして何をやっているのだ。忸怩たる思いで胸が塞がる。
私は二人のやり取りを最後まで聞かずに静かに襖を閉めた。