2020年
第25回入賞作品
優秀賞
五線譜の旅人 焼山 美羽(16歳 高校生)
私が先生と呼んでいるその人は、祖父の一番の友人であり、私の中でいつまでも生きる人。出会いは、祖父にわがままを言って高校の同窓会に付いて行った時だった。祖父が先生に、音楽は好きな方で大体の楽器は扱えると私について紹介したところ、「僕が指導をするから、音楽の道にぜひ進んで欲しい。」といきなり懇願してきた。戸惑いはあったものの、当時小学生だった私はその願いを達成してみようと安易に考え、生徒は私一人の音楽教室で指導を受けることになったのだ。今になって祖父が言うことには、先生は昔、作曲家を目指していてその夢を私に託したかったらしい。
先生の自宅で行われるその音楽教室では、先生と先生の奥さんにとてもよくしてもらった。いわばそこは私の帰るあてだった。休憩時は特に、先生の新曲を聞いたり、知らない時代への小旅行と称してレコード鑑賞をしたりと、非常に思い出深い。そんな環境のおかげで大量にある音楽の知識を頭に入れることも苦にならず、楽器の上達具合も良かった。
しかしある時、私の片耳が突発性難聴で聞こえなくなってから、そんな状況は一変したのだった。音楽は私にとって辛いものになった。根性で音楽を続けることも出来たが、以前先生の作った曲に勝手に詞をつけているのを見ていた奥さんが「詞先なら、」と作詞家を勧めてくれたのをきっかけに、音楽ではなく、言葉に興味が向いた私は詞を描く以外の音楽について控えることにした。私は先生を裏切ったのだ。音楽の道に進むと言っておきながら進まずに言葉の道へ方向転換して、先生の夢を無念なものにしてしまったのだから。
教室を卒業する日、先生は万年筆を原稿用紙で包んで私にくれた。先生のインクで黒ずんだ指は、「誰もが心を打つ作品を生み出すのは簡単なことじゃない。これから相手にするのは楽譜ではなく原稿用紙だ。」と、私に強く感じさせた。「言葉で何かを表現するような職業に就きたいんです。」と私が先生に伝えると、先生は「叶えろよ。これは約束だ。」と私の肩を叩いて他に何も言わなかった。
その二年後、先生は多発性骨髄腫で亡くなった。身体を激痛と放射線治療の副作用が襲っても、先生は何度も作曲がしたいと言っていたそうだ。奥さんとの初めてのデートの時も、卓上の紙ナプキンにいきなり五線譜を書き始めた先生らしい。「泣いたって仕方がないの、だけどね、ほんとうにこんなこと……」先生の死を伝える電話越しの奥さんの声が私には耐え難いものだったのを今でもよく覚えている。私もその日は涙が止まらなかった。
それから何週間か経った日のこと。奥さんに卒業生として家に招かれた。訪ねてみると、別れの曲となってしまった未完の交響曲の楽譜がピアノの譜面台に広げられていた。「音楽用語の頭文字に注目して見て欲しい。」とのことで確認すると、みつけられた。
ーーレガート、モデラート、エスプレッシーヴォ……
それは頭文字を並び替えると浮かび上がる、“Let us meet again”「また会おう」という先生からのメッセージだった。私は「命は永遠ではないけれど、誰かが僕や僕の音楽を思い出したとする。そのときは生きてるのと同じことなんだ。つまり、思い出して欲しいんだな。」といつの日にか先生が言っていたことを想起した。いくら先生不孝の私でも先生のことを決して忘れたりしない。その理由には先生の願いに答えられなかったという後悔を背負っているからでもある。
今、先生は五線譜の旅人となって音楽の世界を旅しているはずだ。私が先生のことを思い出しさえすればいつでも再会できる。けれど、私はまだ会わないようにしようと思う。「約束通り、夢を叶えました。」と先生に言える日が来るまでは。精一杯、自分で決めた道を迷わずに行く。そして私も先生のように、死んでもなお、誰かの中で生き続けるのだ。