2018年
第23回入賞作品
10代の約束賞
父と生きる 田ノ岡 恵葉(13歳 中学生)
あの約束を交わしたときから、もう五年経ちます。交わした相手は両親とそれぞれ二つずつ。父が白血病になったのは私が小学二年生のときでした。祖父母と旅行から帰って来てすぐにそのことを聞かされたとき、何のことだかさっぱり分かりませんでした。分かったことはただ一つ、父が入院しているということ。その足で病院へ行きました。会ったときは元気そうで、父がそこに居る理由が分かりませんでした。しばらくしたらすぐに帰って来られると思っていました。父の病気は子どもはお見舞いに行けません。それでも看護師さんが気を遣ってくれて、ドアのところにイスを置いてそこから話せるようにしてくれたり、私が言っていることを伝言してくれたりしました。でもあんなに会うのを楽しみにしていたはずなのに、一時帰宅で父の顔を見たとき声をかけるのに戸惑ってしまいました。どうしてか自分でもよく分かりませんでした。今思えばあまりの変わりぶりだったのでしょう。見た目は変わってしまいましたが、父は父のままでした。私にだけ甘い父、ゲームにわざと負けてくれる父、感謝してくれない父。たった一ヶ月だったけれど、私にとってはギュッと凝縮された日々でした。
心に深く残っていることがあります。母が不在のときに給湯器が壊れてしまいました。「ぱぁぱ(父)が動くときは必ずついて行ってね」と母に言われていたので、寒い中二人で見に行きました。次の日父は病院へ帰りました。私は学校へ行き、母は父を病院へ送って行きました。車中で母は父に「やっちゃん成長したなぁ。嬉しかったわ」と言われたそうです。私が三年生になった頃、父はICUに入りました。それを知ったとき、父は元気になって戻ってくると信じていた私は
「ぱぁぱはオーロラ姫(眠り姫)になったんやね」
と言ったのを今でもはっきりと覚えています。しかし、父は戻ってくることはありませんでした。覚悟をしていたつもりでしたが、現実を受け止めるにはとても長い時間がかかりました。スカイプのボタンを押せば父につながるんじゃないか、ドアを開けたら父がおかえり、と言って待っていてくれるんじゃないか、と思う日が続きました。でも父との約束があったので泣きませんでした。父が家に居たとき、ぱぁぱが死んでも泣かない、自分自身や家族を守ることを約束しました。私は強くならなければいけないと思い、泣くのを我慢していました。我慢すればするほどその約束はつらく負担となっていきました。ある日母は「泣きたいときは泣く、話したいことがあったら話すを約束しよか」
と言ってくれました。私はそれを聞いて泣かないということだけが強いのではないと気付きました。母は泣かなくて強いと思っていたけれど、母も父が亡くなった日に大泣きしていたことをそのとき初めて知りました。その日を境に今日あったことをたくさん家族に話すようになりました。それに前よりも人に感謝の気持ちを素直に伝えらえるようになりました。理由は二つあります。私はもう父に口に出して感謝を伝えることはできません。父に言えなかった分他の人に伝えたいと思ったこと、もう一つは私が二度と同じことで悔やまないために、ありがとうを伝えたいからです。最初は意識して行動していましたが、今は自分の一部となりました。
今の私は父が望んでいた姿になっているでしょうか。確かめることはできません。私が失ったものは大きいですが、新しく得たものも大きいです。父はいつでも私の傍で見ていてくれると思っています。迷ったとき心の中の父というお守りに問いかけます。父ならどう言うかなと考えながら、今を精いっぱい生きています。