2018年
第23回入賞作品
佳作
テーブルと長いすの旅 酒井 正子(57歳 会社員)
二十八年前、その大きなテーブルと長いすがやって来た。
息子はまもなく四歳。娘はまだ私のお腹にいた。私は、居間に大きなテーブルをどんと置き、そこに家族が集う夢を描いていた。
横浜のデパートで、下に収納スペースのあるクラシカルな長いすを見た。目がくぎづけになった。そろいのテーブルも下がキャビネットになっている。天板は二一0センチ×九六センチ。大きい。
その日から、その家具たちが頭を離れない。それを囲んで成長する子どもたちの妄想が、昼も夜も頭の中をかけめぐって熱病のようになった。ついに貯金も保険も解約して買ってしまった。
夫は転勤族で、東京をふり出しに広島、横浜、また東京へと転々とした。この長いすの上で娘のおむつを替え、うたたねをした。子どもたちは食事やおやつはもちろん、宿題も友だちと遊ぶのもこのテーブルで。義父母や客が何人来ても何とかなったし、一人で新聞を読んだりミシンやアイロンを使ったり、生活の中心はこのテーブルだった。いつでもだれもが使えるようにモノは置かず、堂々と光っていた。
しかし、世田谷にマンションを買って移り住んだ後、しだいに夫との関係がまずくなり、十三年前に離婚。思春期の子ども二人を連れてアパートに移った。この家具と離れがたく持ち込んだが、引越し業者のリーダーに「お客さん、コレどう置くんですか!困りますよ」と叱られた。それまで夫の転勤で度々動いたが、いつも「奥さん」と呼ばれていた。プロには"ワケあり" はひと目でわかるのだろう。「ボク、大変だろうけどがんばりな」。高校生の息子にリーダーはそう言葉をかけた。
それから、このテーブルに家族がそろうことはなくなった。私は働き始め、息子と娘も学校とアルバイトですれ違いの生活。テーブルと長いすを一緒に置くスペースもなく、長いすは娘の部屋のモノ置きと化した。息子が就職を機に寮に移ると、娘と二人、もっと狭いアパートに越した。
テーブルはついに置けなくなり、天板を外して壁に立てかけた。その時、桜材の重い天板にいくつもの大小の傷を見た。
娘も社会人となり、三年前の夏に一人暮らしを始めた。自分で名字と同じ引越し業者を手配し、私の留守中に出て行った。
私は、家具とともに一人になった。
転居する度に、家具の処分を考えた。もういいんじゃないか。しかし、息子と娘が否と言う。もはやこのテーブルと長いすは、二人にとってふるさとのようなものなのかもしれない。「わかった、捨てないよ」と約束した。
昨年、私はワンルームに移った。もう何度目の引越しだろう。図面ではギリギリテーブルと長いすが置ける。
娘は自分の引越しの際に出会ったリーダーとその後結婚。その彼が、何とか運び入れてくれた。部屋の入口が角になっていて、そこが通らなければアウト、処分する予定だった。
そして今年、娘は母になった。丸々としてよく笑う男児に乳を含ませながら言った。
「来月、引っ越すことにしたよ。ちょっと遠くなるけど広い部屋なの。あのテーブルと長いすを使いたいんだけど、いいかな?」
ああ。
もちろんだよ。
頑丈なつくりのテーブルは、傷はあっても風格が増し、娘一家をおおらかに集わせるだろう。長いすは一度布地を張り替えた。
別れた夫は、四年前に亡くなった。夫ともこのテーブルで日々食事をし、お酒をのんだ。いろいろな思いを共有した、家族のような存在。息子と娘の思い出もこの家具と共にある。
捨てなくてよかった。
まもなく娘の夫の手でこのワンルームから運び出される。新たな生活の中心となって、息を吹き返すだろう。