2017年
第22回入賞作品
学生特別賞
蜉蝣 林 玲李(17歳 高校生)
「おばあちゃん、見て。トンボが飛んでる。」
「ちゃうで。あれはなぁ、蜉蝣言うんやで。よう見てみ。トンボより小そうて細っこいやろ。」「すぐ折れちゃいそうだね。」
カキツバタの咲く水辺で蜉蝣の群が大繁殖を試みている。華奢で、少々みすぼらしいともいえるその体には、糸屑の様な脚がぶら下がっている。ゆらゆらと揺れる蜉蝣の三本の尾は、人間の壊れ易い神経を思わせる。
捕まえくるーっっ。弟が初めて見る光景にばか騒ぎしている。「やめときい。蜉蝣はなぁ、成虫になってから一日しか生きられんのや。」
あ、それ知ってる。「蜉蝣の一期」という諺を学校で習ったことがあったのだ。
「たった一時間の間に卵を産むと、水の中で溺れて死んでしまうんやで。せやから成虫の蜉蝣は、口が退化してしもてご飯が食べられへんのや。蜉蝣さんも時間は有効的に使うつもりなんやなぁ。」祖母が冗談ぽく笑っている。虫が嫌いな私にとって蜉蝣の大発生などごめんだが、ビルやコンクリート、普段目に入るものは灰色ばかり。蜉蝣の産卵は大いに新鮮だ。
「ほな、蜉蝣達が幸せでいられるように、もうしばらく見守っていようか。」祖母がそう言ったとき、私はふと、あの時の会話を思い出した。
まだ赤いランドセルを背負っていた頃だろうか。どうしても着たかったワンピースを買って貰えないことがあった。しかもそのワンピースはピンク、フリル、花柄の大好き三点セットである。私は父への単純な反抗心で「こんなことなら生まれてこなければよかった。」と投げやりな言葉をぶつけたのだ。それを聞いた父は、私が今まで見たことのない表情を浮かべていた。切なげで悲哀に満ちた感情が、あたたかな眼差しを纏い、こちらを見ていた。父は少し黙った後、静かにゆっくりとした口調で話し始めた。
「お前もよく知っているように、ママはお前を産んですぐに死んでしまってね。元々持っていた病気がね、お前の顔が見たいって踏ん張っている時に酷くなっちゃったんだよ。ママの息はじわじわと細くなっていった。パパはどうすることも出来なくて『絶対幸せになろうな。』て言ったんだ。そしたらママは『約束だよ。』って。『うん、約束だ。』パパもそう答えたよ。約束は果たされなかった。だけどねお前はママからの大切な贈り物だよ。」この時私はこう思った。なんでパパは怒らなかったの?
私は、今想像している。母の限りなく続いている命が薄紙を剥ぐ様にすり減り、片手で握れる程短くなって、手を開けばぱっと逃げてしまおうとしているとき、母の指の隙間からその命が溢れぬよう、捕えた虫を逃すまいとして力を込めすぎ中で潰してしまう子供のように、ただ強く母の手を握りしめる父の姿を。蜉蝣が食すか遺伝子を残すかの二者択一を迫られたとき、子孫繁栄を選んだように、自分の心臓ではなく私の心臓を選んだ、線香花火のごとく儚くとも美しい強さを持った母の姿を。
そして私は心に誓う。声に出す。
「必ず、私が家族みんなを幸せにするから。約束するから。」だって、『絶対幸せになろうな。』って言葉は、母の繊細な体の中に入ると、臍の緒をずんずん進んで私の元まで届いたのだから。
「おばあちゃん。蜉蝣ってすごく綺麗。」
「ほんまやねぇ。」蜉蝣は陽炎のような幻ではない。一瞬でも、これが蜉蝣の幸せの形なんだ。そして蜉蝣は、幸せの一瞬を毎年繰り返している。私は、はっとした。そうか。またもや蜉蝣に気づかされてしまったようだ。幸せとは、次を生きる者に引き継がれていく者なのだ。
しばらくすると、白い白い群の乱舞の後の静けさが、ぬくもりとなって私を包んでいる。それは家族の温かさそのものではないか。もしかすると、蜉蝣は母の生まれ変わりなのかもしれない、と思いながら心の中でくすりと笑った。
いつか、自分の子供に「幸せになろう」と約束できる日が来るといいな。