2017年
第22回入賞作品
佳作
小さな希望 三竿 璃矩(17歳 高校生)
タクシーに乗る時、僕はいつもあるタクシードライバーの男性の事を思い出す。
小学一年生から中学三年生の終わりまでの九年間、僕は水泳をしていた。とあるスイミングスクールの強化選手として、ほぼ毎日練習をし、本気でオリンピック出場を目指していた。
高台にある家から、練習をする場であるスイミングスクールまでは、およそ五、六キロの距離がある。一般の生徒や、他の選手の様に、スクールバスを使う事も、自転車でスクールまで向かう事も出来なかったので、中学生になるまで僕は、親に車で練習の送り迎えをしてもらっていた。
しかし、急な都合で親による送迎が困難になる時があったりした場合、僕はタクシーを使って練習に向かっていた。そんな事が数回あった。今思い返してみても、タクシーを親の車代わりに使用するだなんて本当、どれだけ生意気な小学生なんだろうと思う。
そして、そのタクシードライバーの男性と出会ったのは、僕がそうしてタクシーを使って練習へと向かったある一日の事であった。
いつも通り、家からタクシーに乗り込み、ドライバーの方に行き先を伝える。道中、行き先がスイミングスクールだと言うので、察しがついたのか、
「将来の夢は、水泳でオリンピックに出る事ですか?」
と、そのタクシードライバーの男性は僕に突然そう質問した。僕が「そうです」と答えると、「それは楽しみだ」と、信号に捕まったタイミングを機に、男性は後部座席にて座る僕の方を振り向いた。
中年期以降の男性である事は間違いなかったが、そこまで年老いている様には見えなかった。髪もまだ白髪が少ない。しかしその男性は、自分は結構な年寄りであると言い、日々の生活がもう随分と退屈になってきていると言うのだ。
すると、男性は僕にこう言って来た。
「君がオリンピックに出てくれるのを、僕はテレビの前でずっと楽しみにしています。だから僕は、君の名前を絶対に忘れない様にする。僕は君の第一のファンだ」と。
そして、自分の名前を君に今教えておくから、将来君がオリンピックに出場して、メダルを取ったら、今日のこのタクシーの中での出来事を踏まえて、自分の名前をテレビの前で口にしてほしいと、「それを楽しみにして、僕は生きていく」と、僕にそうも言ったのだった。
僕はそれを承諾した。僕とタクシードライバーのその男性との間に、一つの約束が産まれた瞬間であった。
しかし、その約束が叶う事はもう二度とない。なぜなら、僕は既に水泳をやめてしまっているからだ。僕は今十七歳で、来年には大学受験を控えている。
別に、あのタクシードライバーの男性が、本気であの約束を交わしたとは思っていないし、あの男性はもはや、僕の名前を、いや、そんな約束をした事さえも、今となっては覚えていないのかもしれない。
でも僕は、あの時僕の第一のファンになってくれたあのタクシードライバーの男性を、絶対に忘れる事はないのであろう。
今もタクシーに乗る度、男性の期待に応えられなかった事に、どこか悔しさを滲ませる自分がいる。
申し訳なさが胸の中を駆け巡っている。しかしそれと同時に、僕は変わりなくいつも、小さな喜びを感じ続けている。
僕はあの約束の時を、タクシーに乗る度に必ず思い出す。それはあの時が、僅かながらにでも、僕が家族以外の見ず知らずの誰かの希望になれた。初めての瞬間であったからだろう。
―― 僕は嬉しかったのだ。
五代さん。あなたは今、何をしていますか。