2010年
第15回入賞作品
審査員特別賞
「運動靴」 清水 龍彦(49歳 会社員)
駅前から商店街へ続く一本の道を足早に歩いた。今日こそは、あの靴屋のおじさんに代金を払わなければ。靴屋が今でもあるのか、あのおじさんが今でも元気なのか、という不安でいっぱいだった。
私が中学校に進学する時、同じ塾に来ていた友達が履いている運動靴が欲しくなり、同じものを探して何軒も靴屋を回ったことがあった。そして隣町の商店街でついに発見した時、私はうれしさのあまり、接客してくれた店主のおじさんにこれまで探し回った苦労を浴びせるようにしゃべった。
「そうか、よかったな、ホント、よかったな」白髪交じりの五分刈りの丸い顔は日に焼けていて、目じりにはしわがきれいに並んでいた。「ようし、これは千四百円にまけとくよ。」私は息を呑んだ。手元には千円しか持っていなかったのだ。「すみません、足りないんで今すぐ家に取りに戻りますね。」すると笑顔での即答だった。「いいよ、遠いんだから。お金はあるとき持っておいで。靴は今持っていっていいからね」。私はおじさんの度量に圧倒されながらも、「必ず持ってきます」と言い残して夕暮れの家路を急いだ。
しかし帰宅後は靴紐を結ぶのに夢中ですっかり忘れてしまい、たまに思い出すこともあったが、隣の町の商店街に近づく機会もなく社会人となって自宅を離れ、年月が流れた。
最近になって、小学校のクラス会での思い出話から記憶がよみがえり、あの運動靴の代金を支払っていなかったことを突然思い出したのだ。一瞬だが、血の気が引いた。約束、ましてや金銭にかかわる約束を守っていなかったのか。私を信頼してくれた、あのおじさんの笑顔が脳裏に浮かんだ。
店は坂道の途中にあった。店の中の棚にだけ商品を並べる簡素な店になっていた。
「あら、いらっしゃい」おばさんが奥から出てきたので、私は率直に事情を説明した。「あ、おじいちゃんね。もう五年前に亡くなりましたが」五年という歳月は間に合わなかったというには遅すぎた。私は覚悟していたとはいえ、亡くなった、と言われると肩を落とした。それでも「利息とか含めて」と言って、二千円を渡した。するとおばさんは「気にしないでください、おじいちゃんは、そういって売っていた人ですから。ずっと時間が経ってから思い出して払いに来る人もよくいるんですよ。そのたびに、見たか、世の中に悪いやつはいないんだって、うれしそうにしていましたよ。」私には、この話は痛いほどこたえた。おじさんは亡くなる間際、私の一件を覚えていただろうか。私はおばさんに頼んで、仏壇があるという二階に上げてもらった。
部屋は衣類やら本やら段ボール箱やらで雑然としていたが、仏壇と座布団の周囲は整然と片付いていた。
仏壇の中央奥にはまさに、あのおじさんの遺影があり、脇には祭礼の日に孫らしき男の子と一緒に写った写真があった。私は線香をあげると、手を合わせて小声で言った。「遅くなりました。ごめんなさい。ありがとうございました。」あまり思いつく言葉もなく、私はしばらく合掌した。背後でおばさんのすすり泣く声だけを残して、短く濃密な時間が流れた。
さて、これで約束を守ったことになっただろうか。私は帰ろうと座布団から腰を上げようとしたその時だった。「よく来てくれた。あんたは来ると信じておったよ。」鋭い口調の声にギクリとした。声の主はおばさんだが、まるでおじさんが憑依したような表現だった。驚いて振り向くと、おばさんは声を上げて笑い始めた。「ごめんなさい、おじいちゃんの遺言で、もしあとからお金を持ってくる人がいたら、こう言っといてくれって」おばさんは困ったような恥ずかしそうな赤い顔をして、笑っていた。仏壇のおじさんの写真の笑顔もいよいよ明るさを増していた。