第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2010年
第15回入賞作品

佳作

「誓詞爆笑」 菅原 裕紀(44歳 主婦)

 覚えていますか?十七年前の、六月十二日のことを。
 よりによって私達は、神様の前で交わす、一番大切な約束の場面で、大失敗をしてしまいましたね。私達、というよりは、あれは私の一方的な失態でした。
 あの、よく晴れた六月の朝、白無垢と紋付袴姿の私達は、気がつくと神様の前にいて、親族一同に見守られていました。
 今思うと、本番前に行われるはずの、『誓詞奏上』のリハーサルが、なぜだか行われませんでしたね。でも『誓いの言葉を読むぐらい、練習しなくても』と、あの時は気にもとめませんでした。それが第一の要因でした。厳かに、けれども着々と、式は進行しました。そしてとうとう、あれが始まってしまったのです。誓詞の奏上が。あろうことか私達は、あの場で初めてあれを目にしたのですよね。まさか古語で書かれた、特殊な文章だとも知らずに。私達は若くて、何も知らなかった。
 これが第二の要因でしょうか。・・・そして、第三にして、一番大きな要因は、持って生まれた私の性質にあったのかもしれません。いくら平静を装っても、人は、生まれて初めて口にする言葉を、そうスラスラと読めるものではありませんよね。あなたの、素人の時代劇のような誓詞奏上、私には堪えられませんでした。こみあげる笑い、震える肩、揺れる角隠し・・・結婚の誓いどころではありませんでした。一つ笑いの山を越えても、また次の山が来ます。一番大切な日の、一番大切な場面なのに、私の頭の中では、笑いのマグマが噴き出す寸前でした。あなたと古語は、ミスマッチ過ぎました。そしてとうとう、その時は来ました。あなたが必死の形相で誓詞を奏上しているにも関わらず、私はこらえきれず吹き出してしまったのです。やってしまったと思いました。神主さんや巫女さんの当惑した顔。しまいには隣のあなたまで、私につられて笑ってしまい、いよいよ私達の誓詞奏上は、最悪の様相を呈してきました。・・・
 その時でした。静まりかえっていた背後から、聞き覚えのある、高らかな笑い声が聞こえてきたのは。笑い上戸な、母方の叔母の声でした。続いて、父方の叔父が、それに応えるかのように、全く場違いなボリュームで笑い出す声が聞こえました。私は、振り向くことは出来なくても、背中全部を耳にして耳を澄ましました。そのうち、笑いは親族にさざ波のように広がり、とうとう、必死で我慢していたであろう、笑い上戸の権化、母が吹き出す声が聞こえました。こうなったらもう、緊張感もなにもありません。私はもはや、涙を流して笑っていました。それでもなんとかかんとか誓詞を読み終えたあなたは、最後に自分の名前を読み上げましたね。続いて私も、こみあげる笑いと同時に、ほとんど悲鳴に近い声色で自分の名前を読み上げました。それからのことは、恥ずかしくてほとんど覚えていません。
 一世一代の大切な場面で、神様は私を不真面目だと思ったでしょうね。けれども、聞き覚えのあるたくさんの笑い声を背中に感じながら、あの時私は、とてもとても心強かったのです。ああ、確かに私は、この声の中で育ったのだな、と、背中がほんわかと暖かかったのです。最後には、笑い過ぎて泣いているのか、泣きたくて笑っているのか、わからなくなっていたのです。
 あなたは覚えていますか?六月のさんざめく光の中で、さんざめく笑いに包まれながら交わした約束を・・・。