2008年
第13回入賞作品
佳作
「優しさにつつまれて」 山口 みあき(48歳 女性)
入院していた母。週末には父に手をひかれ電車を乗り継いで逢いに行っていた。多分遠かったのだろう。まだ小学校入学前の私にはその場所も意味も判らなかった。
真白い壁に囲まれた部屋の黄色いカーテンの中、母と二人だけになった或日。父が医者の話を聞きに行っている短かい時間、私は母のベッドに潜り込んでいた。父の前でそういう事をするときっと父は悲しい顔をするに違いないから。そういう薄い気持ちの膜は破れない子供だった。仰むけになっている母の傍らにピッタリと身体をくっつけて胸の上で組んでいた母の指を自分の指に絡ませながら嗅ぐ消毒液の匂いと入り混ざった母の香りが大好きだった。胸いっぱいに息を吸う私の嬉しさと裏腹に、その日の母はいつもの様に私に頬擦りをしながら話してはくれなかった。真直ぐに天井を見つめたまま静かな声で囁くように言った。「みぃこ、ママの事、忘れるのよ…。」幼い私でも聞こえた言葉は衝撃的だと感じて瞬間全身が凍りついたような気がした。息を止めた。次に母の口から零れ落ちる言葉を聞きたいのか聞きたくないのかわからなくなっていた。「約束だからね。絶対に。ママを忘れてちょうだい。みぃこは出来るよね。本気の約束。」下唇の内側から血の味がしていた。視線を落とした先の母の枕が濡れていた。私が今、言葉を発したら、きっと母はもっと辛くなるのだろう。飲み込みすぎた涙で鼻の奥が痛かった。その次の週末はもう病院へは行かなかった。二度と目覚める事のない母が家に帰ってきた。声を殺して泣く父の背中で眼が溶ける程泣き続けた。一生分の涙を出し尽くした程に。私が小学校三年の時新しい母となる人がやって来た。大きな瞳で色の浅黒い元気な人だった。父と二人きりの生活に賑やかな色が溢れる位楽しさが増していった。私に「お母さんと呼んでね。」などと言う人ではなかったので、父が呼ぶ「ケイちゃん」を真似て呼んでいた。父にも私にも一生懸命向き合ってくれたケイちゃんだった。中学受験の当日も校門の横で祈る様に立っていた姿が浮んでくる。短大迄の八年間手作り弁当は私の自慢の一つでもあった。ケイちゃんはとってもいい母親だった。どこかのきっかけで「お母さん」と呼んでみたい気持ちもあった。でも、何かが壊れそうで怖かった。私の後に子供も無く私一人に心を注いでくれたケイちゃんの真直ぐに私をみつめる瞳が時に重く感じた事もあったけれど不安を溜めた瞳が辛くて心が締めつけられそうになった。ケイちゃんは私が好きになる人を快く受け入れてくれて固い父の説得役にまわってくれた。あっという間に今の主人と結婚して、「お母さん。」そう主人から呼ばれたケイちゃんの大きな瞳は驚く位拡大して揺れていた。「君もいい機会だし、呼んだら?」主人の言葉の意味も理解はできた。でもどうしても「約束を守れない私」がもう一人居た。倖せな親子、夫婦関係にゆったり漬かっていた私達に突然の大きな悲しみが近付いたのもそんな時だった。「来年の桜は見られないでしょう。」医師の言葉に父と私は息をするのを忘れていた。ケイちゃんは全身にガンが広がっていたのだった。あの日と同じ、寒い白い部屋。ベッドのケイちゃん、パイプ椅子の私。布団の中で手をさすっていた私の指に細い指を絡めてケイちゃんが言った。「みぃちゃん、ありがとね。私は倖せだった。あんなに小さかったのにみぃちゃん一度も本当のお母さんの事言わなかったね。一度も比べなかったね。私嬉しかった。私だけのみぃちゃんでいてくれて有難うね。」
「ケイちゃん…お母さん!私こそ有難う、本当に…。」二十年分の涙が二人の瞳から流れ落ちた。私はケイちゃんに頬擦りをしながら泣き続けた。
「ママ、あなたの言いたかった事今、本当に理解できたよ。私はちゃんと約束を守ってるよ。」私自身とかわした約束は愛する二人の母へ贈る私からの大きな感謝のメッセージ。「お母さん、ありがとう。」