第29回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2008年
第13回入賞作品

大賞

「さいさい、おいでまい」 井浜 大輔(29歳 男性)

 「おじいちゃん、あなたのこと気に入ったみたい」
「え」
「さいさいおいでまい、なんてあの人が言うのを聞いたことないもん」
嫁さんの故郷、香川からの帰り道。
意外な言葉に思わず横目で助手席の嫁さんを見る。
その日僕たちはご両親が住む実家に伺って結婚の挨拶を済ませたあと、少し離れた土地に一人で暮らすおじいちゃんの家に向かった。
偏屈な人やから。予め嫁さんからそう聞いていた僕はかなり緊張して玄関をくぐる。
果たして、予想以上の仏頂面で、小柄な老人が座敷に座っていた。
「さよこさんとお付き合いさせて頂いております。今回結婚のご報告に…」
考えておいた口上も渋面の前にはスムーズに運ばない。
嫁さんが気を利かせてあれこれ話かけるも、うんとかああとかそっけない返事ばかり。
ほどなく気まずい沈黙が流れはじめた。おじいちゃんの茶をすする音がやけに大きく響く。
あれこれ話題のとっかかりを考えている時だった。
「さかな」
「は?」
「ここは魚が美味い」
はじめて単語らしい単語が飛び出した。これを逃す手はないと頭をフル回転させる。
「あのー、実は僕、料理が好きでして…」
実際の話だった。一人暮らしの賜物で、オーソドックスな家庭料理なら一通りはできる。
おじいちゃんの目がまっすぐ僕をとらえる。蛇に睨まれた蛙のようだ。
「魚なんかもよく捌くんです。スーパーで買ってきたものですけど」
これは大嘘だった。普段、切り身を調理するのが関の山だ。嫁さんがここで、
「そう、すごく上手に捌くんよ、この人」
と加勢する。おじいちゃんの目がきらりと光った気がした。
「ほんだら今度来た時見事なもん拵えてもらおかの。ええ魚用意しとくけ」
「はい、必ず」
威勢よく返事する僕。やばい。勢いでとんでもない約束をしてしまった。
以降話は盛り上がることもなく、暫くして僕たちは家を辞した。
「さいさい、おいでまい」
たびたび来なさい、という意味の讃岐弁。
帰り際、玄関先でおじいちゃんがつぶやいたその一言が、僕に重くのしかかった。
 一週間後、自宅に宅急便が届いた。
封を開けると、見たこともないような立派な出刃包丁が納まっていた。
差出人はおじいちゃん。一枚の紙が添えられている。
「更に腕を磨いて下さい 祖父」
楽しみにしとるんやねえ、気に入られとるねえと呑気に笑う嫁さんを残し、僕は一目散にスーパーへ走った。
 その三ヵ月後、結婚式と新婚旅行を済ませた僕たちは、親族に土産物を渡すため、再び香川に向かった。
魚を捌く特訓は、式の準備等の合間を縫って随時行った。
が、高級出刃をもってしても、一朝一夕でどうにかなるものではなかった。
式に参列してくれたおじいちゃんの厳めしい顔を思い出すと、もう暗澹たる思いだった。
 「ただいま帰りました」
座敷に一人、あいかわらずの顔でおじいちゃんは座っていた。
用意されていた座布団に座り、土産を渡し、新婚旅行の話など、と口を開きかけたその時、
「甘鯛の」
来た、と思った。それにしても早い。
「ええのが入ったで、いっちょこ(ちょっと)捌いてもらえんかの」
「…じゃあ、煮つけか塩焼きに…」
「それじゃあ腕は計れんだぁろ」
横で嫁さんが笑いをこらえている。僕は天を仰いだ。
 かくしてテーブルに、不格好で下手くそな甘鯛の刺身が並ぶことになった。
 どうぞと皿を置いた後、恐ろしくて顔を上げられない僕。
どんな凶悪な顔をしているのだろう。あるいは睨んでいるのか。
「やっぱりのう…」
おじいちゃんの低い声。
「本当にすみません!失敗しました!」
そう言って僕は顔をあげた。
おじいちゃんは、何と笑っていた。
 「失敗やないだぁろ。まあ、努力賞やの」
全身のい力が抜けた。
おじいちゃんは、出来ないことを見抜いた上で包丁を送ってきたのだ。何という老獪。
 「次はもっと練習してからやの。さいさい、おいでまい」
とは帰り際のお言葉。
わかりました、約束は守ろうではないですか。腕を磨いてまた来ます。
 僕は香川に行くのが、少し楽しみになった。